実現せずとも世界基準に達していた釜本氏
メキシコ五輪で日本代表が銅メダルを獲得してから7年後の1975年。クラマーさんは母国・西ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンの監督に就任している。
当時のバイエルンは、皇帝フランツ・ベッケンバウアー、爆撃機ゲルト・ミュラーをはじめとする西ドイツ代表選手たちを擁していた黄金期。いきなり欧州チャンピオンズカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)を制しながら、クラマーさんは幻に終わったプランを幾度となく嘆いていたという。
「カマモトがバイエルンに移籍していたら、ミュラーとの史上最強のツートップが誕生しただろう」
メキシコ五輪で7ゴールをあげて得点王を獲得した当時24歳の釜本に、クラマーさんはこんなアドバイスを送っている。
「これからプロの話が出るだろう。お前は世界でもまれろ。でも、ビッグクラブに行かなければダメだ」
実際、日本リーグのヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)でプレーしていた釜本のもとには、ウルグアイ、メキシコ、フランス、西ドイツの4つのクラブから直筆の手紙、いまでいう移籍のオファーが届いていた。
「だけどね、僕がウイルス性肝炎にかかったのであきらめたんですよ」
突然の病に倒れたのが1969年6月。トップコンディションを取り戻すまでに数年を要したことで、日本人の第1号プロになる夢はかなわなかった。
それでも、おそらくは日本人選手として初めて海外クラブからのオファーを受けた事実が、釜本のプレーレベルが世界基準に達していたことを物語っている。