日韓ワールドカップ。そして欧州の舞台へ
1995年のU-17世界選手権で惜しくもグループ突破を逃した黄金世代は、1999年のワールドユースで準優勝。全カテゴリーの日本代表を通じてFIFA主催世界大会で初のファイナリストとなる快挙を成し遂げた。その勢いのまま、2000年のシドニー五輪ではベスト8と、1968年メキシコ五輪の銅メダルに次ぐ成果を挙げることとなる。躍進し続ける黄金世代の中核である小野伸二選手と稲本潤一選手はそれぞれヨーロッパのクラブへと移籍。2002年日韓ワールドカップへの出場を果たし、世界のトップレベルへと到達する。
その時期は、普段から欧州でプレーしている選手が集まって代表になる、という流れが自然と出来上がりつつあったが、当時の日本代表は個性的なチームだったと言えるだろう。稲本選手はボランチではあるがかなり攻撃的なプレーを見せていた。そして小野選手は位置としては左ウイングバックだったがプレーメーカー的な役割を果たしていた。
――おふたりとも2001年に欧州移籍を果たし、個としても経験を積んだのちに、いよいよ2002年にワールドカップを迎えました。ご自身にとってはどんな大会でしたか?
稲本潤一 ぼくにとっては初めてのワールドカップ、日本にとっても2度めで、それほど「ワールドカップ」という印象は受けなかったですね。単純にひとつの大会、と捉えていました。でもいま考えると、日本でワールドカップを開催するなんて本当にすごいことなんですけれども(笑)。当時は若かったですからね。そういう認識がなくて、緊張感もあまりありませんでしたし、次のシーズンではアーセナルと契約、というような状況で「稲本」という選手をみなさんに知ってほしいというモチベーションがありました。
――小野選手にとっては2回目のワールドカップでしたが、これから代表に入っていこうという四年前と、年は若いけれども主力になっていた日本開催の大会とで立場がちがいましたね。ポジションは左のアウトサイドでした。
小野伸二 慣れているポジションではなかったんですけれども、うしろに中田浩二(3バックの左)がいたり、横(ボランチ)にイナ(稲本潤一)がいたり、しっかりと守備をしてくれる人たちがいましたから。いい守備からいい攻撃の準備をする、ということだけを考えてやっていました。
――周りに守備をしてくれる選手がいたうえであのポジションだったからこそ、攻撃に関与しやすくなったという面はありますか。
小野 そうですね。言い換えれば、守備をあまり意識せずに済んでいたからこそ、とにかく攻撃のときは「巧くコントロールする」、ということをすごく考えながらやっていました。
――日本代表はベスト16で終わってしまった大会でしたが、あまり負けた感じのしない敗戦でしたし、もう少し上に行けるのでは? というモヤモヤが、観ている側にはありました。選手のみなさんにもそういう気持ちはあったのでしょうか?
小野 もうちょっと行けたでしょうね。きっと。ねぇ(と、稲本選手を見る)。
稲本 そうですね、あまり負けた感じはしないですし。
小野 感じないよね、ほんとうに。
稲本 勝っていれば次の対戦相手はセネガルでしたから、もうちょい行けたかなと思いますけれども……。でももしかしたら、それがワールドカップで勝つ難しさなのかもしれません。そんな簡単に勝てるわけではない、という。のちのドイツ(2006年)もそうですし。やっぱり各年代の代表とはレベルがちがった感じがしました。オリンピックとA代表の差はけっこう大きいと思います。