湘南スタイルは一日にして成らず
ここ数年、湘南ベルマーレの健闘が著しい。勝敗のみならず、そのクラブの指針の継続と運営についてである。
忘れられないシーンがある。2013年の第32節のFC東京戦で1-2の敗戦を喫し、J2降格が決まった直後である。ライトグリーンのサポーターたちによる暖かい拍手と声援、そして会見場における曺貴裁(チョウ・キジェ)監督の凜としたコメント。悲鳴や号泣とは縁遠い、あれほど前向きな降格決定の場面に私は遭遇したことがない。たとえ戦いのステージがダウンしてもブレない信頼の意志の継続をサポーターとクラブの両方から発信された瞬間であった。その姿勢に勝利した敵将のランコ・ポポヴィッチ(現サラゴサ監督)も賞賛を惜しまなかった。
ここまでの信頼関係を築きあげるにはどのようなプロセスがあったのか、眞壁会長に久しぶりに会って話を聞いた。
――チーム人件費も拝見させていただいたんですけども、2014年で約5億円という、浦和の4分の1程度です。プロのチームは結果がすべてで、降格になるとすべてが全否定されてしまう傾向がある中、湘南の場合はそれを超越しているのかとさえ思えたんですね。ずっと曺貴裁のスタイルをやり続けるんだという。フジタの撤退後、長い時間がかかったわけですが、基盤を築かれたのは眞壁さんではないかと思っています。まずは経緯を教えてもらえますか。
「まずホームタウンにしっかり根ざさなければいけないと。1998年に全日空の撤退でフリューゲルスがマリノスに吸収合併されてなくなった。実はフジタも経営再建のために即座の撤退もあり得た状況で、ベルマーレもそうなっていた可能性もあるんですよ。でもフジタは(当時ベルマーレの)社長の重松良典さんがもともと広島カープの代表をやっていた方でもあり、クラブを絶対に残すということを優先的にやったんです。それで99年はほとんどの主力選手―洪(明甫)、小島(伸幸)、呂比須(ワグナー)、田坂(和昭)、名塚(善寛)らを出した移籍金を元手にJ1を戦って時間稼ぎをした。それでも当時はバブル崩壊後の日本ですから、結果的に支援しようという企業は現れず、タイムリミットで責任企業のない市民クラブになりました。
でもゼロからではなかった。当時、地域で集めた資本金が2億4000万あったんです。それはホームタウンの上場企業の工場や中小企業から集めたもので、フジタはそれを残していきますと。ただそのまま渡すと贈与になってしまう可能性もあるので、ベルマーレ平塚を走らせながら、もう1つ別会社として株式会社湘南ベルマーレをフジタが作ったんです。
そして役員と株を我々に渡してくれたんですよ。当時のフジタは間違いなく銀行管理下にあったはずですが、その陰で藤田オーナーや重松さんがベルマーレのために銀行団を必死に口説いてくれたはずなんです。フジタが撤退してもこのチームは絶対につぶしてはいけないという藤田家や重松さんの情熱があったんです。
それに対して平塚の吉野市長をはじめ地元議員の河野太郎(衆議院議員/現・湘南ベルマーレ監査役)とかが、なんとかしましょうと応えた。で、僕もそのころから、たまたま地元に戻ってきたので少し骨を折らなきゃいかんなっていう感情になった。出発が熱い情熱と市民に支えられていたから地域密着もお題目ではなく自然となったといえます」
――一方で当然ながら勝つことも求められる。J1復帰という旗を降ろすわけにはいかないという十字架もあった。
「それはね、やっぱりフジタの歴史なんですよ。当時は追い越していく甲府とか山形とか横浜FCを見て悔しく思ったんだけど、我々には前身が日本の名門クラブであるという自負があった。94年はJ1年目で天皇杯を取り、98年のワールドカップには中田(英寿)をはじめ4人も行った。そういうのを見てきた人たちがそのままベルマーレ頑張れよ、と言ってくれるので、どんなに予算がなくて無理だと思っていても『J1に戻ります』と言い続けるしかない。
もう一度、根を下ろして、根を張っていく作業をしながらも、応援してきた人たちの見てる画を描く使命はありました。当時のマスコミは優しくて、(99年に)残った若い子、高田(保則)や小松原(学)は才能があるから彼らがチームに残りさえすればJ1にすぐ戻れるだろうと書いてました。ところが、そんなに甘くないわけですよ。当然、戦力としては厳しいので、00年に加藤久さんが監督になって前園(真聖)や松原(良香)を連れてきてチームを編成した」
――ヤマハから来た小長谷前社長の時代ですね。
「そうです。そしてこれは小長谷前社長の功績なんですが、彼の人脈で安く選手を借りてきてくれて、それで体制を整えた」
――ところが、まったく違うサッカーをやっていた人たちの集まりでもあった。
「そうなんです。…」(続きは『フットボール批評07』をご覧ください)