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【FWの陣形と戦術の謎】3、2、1、0トップ…FWの枚数が少ないと攻撃力は低下するのか?

3、2、1、0トップと時代の潮流とともに減り続けてきたFWの枚数。なぜFWの枚数は減り続けてきたのか? FWの数の減少はサッカーの進化か否か。この度、『サッカーFW陣形戦術クロニクル』を上梓した著者が0トップの源流とFWの変遷を読み解く。

text by 西部謙司 photo by Getty Images

ゼロトップは昔からあった―「偽9番」の源流とは? 

【FWの陣形と戦術の謎】3、2、1、0トップ…FWの枚数が少ないと攻撃力は低下するのか?
サッカー史上、最も攻撃的なFWの陣形は3トップか0トップか?【写真:Getty Images】

 FWの数は減り続けてきた。オフサイド・ルールが現在と同じになった1925年では5人のFWがいたのだが、ブラジルの4-2-4で4人になり、70年代には3人、さらに80年代には2トップが隆盛となり、90年代にはついに1トップ、そして21世紀には0トップと呼ばれるチームも出てきた。

 ただ、ゼロトップの系譜はずっと以前から続いていて、1930年代に「ヴンダーチーム」と呼ばれて強力だったオーストリア代表のCFマティアス・シンデラーはすでにゼロトップ的なFWだったそうだ。40年代にはアルゼンチンの名門リーベル・プレートのアドルフォ・ペデルネーラが有名だった。リーベルでペデルネーラの後釜に収まったのがアルフレード・ディ・ステファノ。ディ・ステファノは後にレアル・マドリーで大活躍する。南米のほうはペデルネーラ→ディ・ステファノと直接受け継がれた形だが、ヨーロッパは50年代のハンガリー代表でナンドール・ヒデクチがゼロトップを復活させた。

 ヒデクチはCFでありながら少し下がったポジションをとり、ハンガリーのカウンターアタックの起点になっていた。相手のCBはヒデクチをマークし続けるのか、後方に残ったほうがいいのか迷う。ヒデクチをマークすると、インナーのフェレンス・プスカスやサンドロ・コチシュが空いたスペースへ走り込んでくる。かといって技巧に優れたヒデクチを自由にするのも問題があった。当時の3バックでは、かなり守りにくかったに違いない。

 70年代のゼロトップ代表はアヤックスのヨハン・クライフ。ただ、最初からゼロトップではなかったようで、アヤックスが初めてチャンピオンズカップ決勝に進出した69年も初戴冠の71年も、アヤックスはゼロではないCFを使っている。クライフのポジションはそれぞれ4-2-4のセカンドトップと、4-3-3のMFだった。クライフのプレーぶりやポジショニングは、のちのゼロトップ時とあまり変わりはないのだが。

 80年代はディエゴ・マラドーナとミッシェル・プラティニ。この2人は「トップ下」として知られているが、86年W杯で優勝したアルゼンチンはマラドーナの前方にCFはいない。ホルヘ・ブルチャガとホルヘ・バルダーノの2トップということになっていたが、守備のときは2人ともマラドーナよりも下がる。トップがいなのだからトップ下というのは妙な気がする。82年のフランスも2トップが2人ともウイングで(ディディエ・シスとドミニク・ロシュトー)、CFの場所にはプラティニかアラン・ジレスが後方から入っていく形だった。隠れCFが2人いるという特殊なケースである。

 90年代はクライフ監督のバルセロナがミカエル・ラウドルップを時々ゼロトップとして起用した。この「偽9番」はリオネル・メッシによるゼロトップの原型だ。

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