左翼のフットボールに見られる芸術性
――政治思想において、自身をマルクス主義者と称するあなたは、フットボールにも左翼と右翼があると論じたことがありますね。
M 私がアルゼンチン共産党を支持しているのは周知の通りだ。左翼思想は人民の側に寄り添うものであり、フットボールとともにある。偉大なる歌手、俳優なども伝統的に左翼から生まれてきたし、だからこそ私は人々を幸せにできる左翼のフットボールとともにある。豊満かつ芸術的で、崇拝されるものこそが左翼のフットボールであり、私はそれに寄り添い続けてきた。対して、右翼のフットボールは「人生は闘い」と定義し、柔軟性のない無機的な規律に選手を縛り付ける。ただ勝利だけを目指してね。
――グアルディオラが実践するポゼッションスタイルは、左翼のものになるのでしょうか。
M その通り。最高の模範だよ。より創造的であり、人々から礼賛されるのが左翼のフットボールだ。それは人々にとって誇れるものであり、ファンはクラブへの帰属意識も手にすることができる。
一方で右翼のフットボールについては、ただただ金任せであり、結果以外のことには目もくれない。それは人々の思いを汲むことなどなく、記憶にだって残りはしないんだ。
結果だけを重視したとしても、一体誰の心に刻まれると言うんだ? モウリーニョがインテルとともに三冠を達成した出来事が、現在も日本のメディアで取り上げられているのか? だが私と君は今なお、グアルディオラのバルサについて語り合っている。この事実は、あのチームが不滅のものになったという証明だろう。
――カウンターを主力武器とする左翼のフットボールは存在し得ないのでしょうか?
M そもそも、カウンターを攻撃の基盤とすることは不可能だ。カウンターは突然生じる恋心のようなものであり、計算に入れることなど絶対にできない。プレーアイデアに含めること自体が愚かなんだよ。カウンターはピッチ上で生じるものではあるが、決して予期できやしない。カウンターだけのチームなど、この世には存在しないんだ。
それをプレーアイデアと勘違いした両チームがピッチで相対すれば、ボールはセンターサークルにとどまることになる。(全文は『欧州フットボール批評03』でお楽しみください)