夢をかなえたティーンエイジ
まだ高校在学中の1997年。ガンバ大阪ユース所属の二種登録選手としてJリーグデビューを果たした稲本潤一選手は、翌98年、正式にガンバ大阪のトップチームに加入する。そして同年、小野伸二選手も清水商業高校から浦和レッズに加入。ここから彼らのプロサッカー選手としての歩みが始まった。
――1990年代は、まだ日本人が世界でサッカー強国と互角に戦えるとは想像もできない時代でした。小野選手(以下、小野)と稲本選手(以下、稲本)のおふたりは、海外のサッカーに対して臆するところはなかったのでしょうか?
小野 特別に意識することはなかったかしれません。というのは、ぼくらはほかの世代に比べたら、けっこう海外遠征に行かせてもらっていたので、海外のチームと試合をすることに抵抗がなかった。自分たちも「やれる」という自信があったから。もちろん、アンダー17(以下、U-17)世界選手権とかワールドユースになるとプレーのレベルは上がりますけれども、練習試合や親善試合、遠征などでよく海外に行っていたから、コンプレックスのようなものはあまりなかったように思います。
稲本 そうですね。中学生や高校生のときによく海外に行きましたし、そこである程度の結果がついてきていました。アジアで優勝した(U-16アジアユース選手権、1994年)ことも自分にとっては自信でしたね。国際経験がほかの世代の10代のときよりも多かったことが影響しているのかな、とは思います。
――おふたりはそれぞれJクラブのユースと高体連のサッカー部に所属していたわけですが、ナショナルチームの一員としての意識が強かったのでしょうか?
小野 いえ、所属チームはチームでふだんの活動がありますし、代表はその都度みんなが集まってやるもの、という認識でした。毎回、毎回が選考会みたいなものだったので、そのうえでそれぞれの大会の選手が決まるという感じでしたから、決して気を抜けなかった。代表のメンバーに入るために、とにかくサッカー部で必死にやっていました。
稲本 10代の頃は、ただガムシャラにやっていた気がします。ぼくはユースだったので、目標(ガンバ大阪のトップチーム)がすぐ近くにあり、トップチームの試合には高校生のときから出してもらっていましたから、いつも必死でしたね。
小野 年代別の代表では同じ世代にすごいメンバーたちが揃っていたので、彼らに負けないように、ということもありますし、もっともっと上を目指したいという気持ちが、そうさせていたんじゃないかと思います。
――稲本選手は、高校のときにJリーグを経験することがモチベーションになっていた部分はありますか?
稲本 やっぱり自信になっていたと思いますね。試合にもほぼ毎回のように出してもらっているなかでプレーできていたことは、ユースの代表であったりオリンピックの試合に臨むうえでの気持ちの支えになっていたと思います。