世界でも通用する人間に
江戸時代には日蘭貿易の玄関口にとなり、グラバー園や大浦天主堂などが外国に由来する観光施設が立ち並ぶ長崎市。異国情緒あふれるこの町で、88年8月に生を受けたのが、吉田麻也である。
吉田有(あり)、昭子夫妻にはすでに長男・穂波、次男・未礼という年子の男の子がいたが、三男・麻也は長男より7つも下。歳が離れた末っ子の誕生を家族みんなが喜んだ。
麻也という名前は、父・有さんの姉夫婦が名づけた。
「私たち夫婦が共稼ぎだったこともあり、子どもたちは近所に住んでいた夫の姉夫婦に預けていました。麻也の名前も姉夫婦がつけてくれて、『世界でも通用する名前をつけたい』という希望で、呼びやすい『マヤ』にしたと聞いています。こうやって世界で活躍するようになってくれて、うれしい限りです」(昭子さん)
両親が忙しかったことから、麻也少年はいろんな人の手で育てられた。毎日のように面倒を見てくれた叔父叔母の家では「赤ちゃんにベビーフードを食べさせてたらダメ。特にカルシウムをたくさん取らないといけない」という考えがあり、魚のすり身やいりこをすったものをよく食べさせてもらっていた。
両親がそれほど大きくないのに、彼が189センチもの長身になったのは、こうした食事の影響かもしれない。
そんな彼が、当時から小学校時代にかけて特に頻繁に取り組んでいたのが、家の前の坂道でのボールコントロール練習だ。
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