鳥栖の選手たちはスペイン人のようにパス回しがうまいわけではなかった
――経営規模や戦力的にも恵まれているとはいえない鳥栖が、Jリーグで首位争いを演じるまでに成長できたという点で、尹晶煥監督の功績は大きいと思いますが、監督はその理由はどこにあると思いますか?
「確かに鳥栖はほかのビッグクラブと比べると、クラブの予算も戦力も潤沢ではありません。地方都市の地味なクラブに過ぎないでしょう。私も選手として初めて鳥栖に来たとき、かつては年間3勝しかできなかったシーズンもあったと聞き驚きましたし、試合前に腹が減ったと間食する選手もいましたから(笑)。
当時はJ2でしたが、どこかアマチュアっぽいところもありましたよね。サッカーも中盤から良いパスがたくさん出て決定力のある新居(辰基)もいましたが、今ひとつチームとしての戦い方が徹底されていなかったように思います。だからこそ、井川会長から『将来は監督として貢献してほしい』と言われてからは、鳥栖に合うサッカーは何かを考え追求するようになりました。
引退後、アドバイザーやコーチとしてチームに携わりしまたが、今にして思うとそれも私にとってはプラスに働きました。(当時監督だった)岸野(靖之)さんや松本(育夫)さんの下で選手管理法を学ぶことができましたし、日本人選手の思考やユース選手の成長過程も肌で感じることができた。そういう経験があったからこそ、監督になってからも自分のカラーをスムーズに打ち出すことができたと思います」
――監督が目指したサッカーとは?
「日本ではスペインサッカーが標榜されていましたよね? 私もスペインのようなパスサッカーが大好きでしたが、鳥栖の選手たちはスペイン人のようにパス回しがうまいわけではありませんでした。5回パスが繋がることは稀でしたし、ハーフライン付近で意味なくボールを回している最中にボールを奪われ、そのまま失点しまうことが多かった。
つまり、とても無駄なパス回しをしていたし、攻撃する前に失点してしまっては力も湧いてこない。そこでボールを持ったら、不用意なパス交換をせずにできるだけ早くシンプルにボールを敵陣に運び、ゴールに繋げるよう意識させました」