決してスターではなかった若き日の遠藤
遠藤自身は今回も後半途中交代となったが、本田のPKにつながる乾貴士(フランクフルト)へのパス出しなど巧みな長短の球出しで中盤のリズムを確実に作っていた。百戦錬磨のゲームメーカーはこの日も異彩を放ったと言っていいだろう。
「チームとして今日もいい形で来ていましたし、前回よりはいい内容で勝てたと思うんで、それはにまた一歩前進した部分かなと。自分に関しても150試合目を勝利で収められたっていうのは嬉しく思いますね。
もともとこの数字を目標にしていたとかはないですけど、1つ1つ試合を重ねてこられたのも周りの方のサポートもありますし、全てがうまく絡み合ってのことだと思うので、非常に有難く感じます。
これに満足せずに1つでも数字を伸ばして、160、170と目指してやっていきたいです」と本人は普段と変わらぬマイペースな口ぶりだったが、偉大な記録を作っても平常心を保てるのがこの男の凄さなのだろう。
すでに広く知られているが、若き日の遠藤はスターだったわけではない。日本が準優勝した99年ワールドユース(ナイジェリア)は稲本潤一(札幌)のケガで先発の座が巡ってきて、ピッチに立つことができた。
同世代の中ではMFの序列は稲本や小野伸二(札幌)、小笠原満男(鹿島)らが上。2000年シドニー五輪も補欠としてチームに帯同する羽目になった。出場の可能性がゼロの状況でも、フィリップ・トルシエ監督から冷遇されていた中村俊輔(横浜)の愚痴の聞き役として献身的姿勢を見せた。
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