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Jリーグ 10年前

“雑草軍団”松本山雅、初のJ1へ。緻密な指揮官・反町康治、サッカー不毛の地で埋もれた才能を再生

text by 元川悦子 photo by Getty Images

「1人1人のタスクを与えるところからスタートした」

 3年という時間を最大限に有効活用して、勝てる集団を作り上げた反町監督だが、就任当初の環境は決して順風満帆ではなかった。2012年1月中旬の始動直後にはいきなり大雪が降り、指揮官自ら朝7時に人工芝練習場へ行って雪かきを行う羽目になったのだ。

 ホペイロもいないため、練習着を自分で洗うのも当たり前。選手たちも規律に欠けていて、練習に遅刻する者、喫煙する者も実際にはいた。そういう選手にハードな走りのメニューを課したところ、プロとは思えないほど走れない。

 本田圭佑や香川真司などトップレベルの選手を指導した反町監督にとっては面食らう事態の連続だった。

「『Yo-Yoテスト』という持久力テストがあるんだけど、最初の御殿場合宿でやったら、湘南時代に計測したビリとウチのトップの数値がほぼ一緒だったのには驚いた。

 湘南時代の数値を選手に見せたら『え、それがJ2なの?』って顔をしていた選手が多かった。そういう水準からのスタートだったんだ」と指揮官は苦笑いする。

 10代の頃は年代別代表経験のある船山らも「あんなにきつい練習をしたことはなかった」と言うほど走りまくった結果、3カ月後には数値が2?3倍に上昇したという。

 限界を超えた走力アップのトレーニングが現在の山雅の確固たるベースになったのは間違いない。これによって、秘めた才能がありながら埋もれがちになっていた船山や喜山康平らが覚醒するきっかけを得たのは事実だろう。

 続いて反町監督は守備の基本戦術の徹底に乗り出した。JFL時代の山雅には明確な守りの約束事がなく、個人能力だけで昇格した印象が強かった。実際、湘南の選手たちが普通にできることが山雅の面々はできない。その現実を踏まえ、彼らのレベルに合わせた指導を考えたのだ。

「『こいつら何だよ』とか『なんでこんなこともできないんだよ』となったらそれでおしまい。ダメなところを隠すのが監督の仕事でもある。だから松本では1人1人のタスクを与えるところからスタートして、そこから組織を構築した。

 チーム戦術に、勝手な名前をつけて共通用語にして、それを叩き込んでいった。長年一緒に仕事をしてきた野澤洋輔なんかは『今までこんなことやらなかったのに、ここではそこまでやるんだ』と驚いたんじゃないかな」と反町監督は言う。

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