私たちはサッカーを正しい言葉で伝える存在にすぎない
金子 いま流行っているのがピッチ解説なんですけれども、今回のW杯でもキックオフ前に解説者同士が視聴者をそっちのけで放送席とピッチでやり取りする映像を見せられました。一番大事にすべきは誰なのかを、プロデューサーも理解していない。
放送界全体の凋落とまでは言わないけれども、伝えるという他者意識がなさすぎる。アナウンサーも触媒、あるいは無機質な映像を通して視聴者と熱いスタジアムをつなぐリンクマンとしての役割と本分を忘れ、自分が、自分がという意識が強くなっている。
岡野 いつもしゃべっていなきゃいけないと、思い込んでいるんじゃないのかな。
金子 自戒の意味を込めて、錯覚していると言います。かつて岡野さんに教えられたことを、僕はいまでも忘れていません。主体はあくまでもサッカーであり、私たちはサッカーを正しい言葉で伝える存在にすぎないと。サッカー独特の間の作り方を含めて、まだまだ研究されるべき点は多い。今後も、後輩諸兄と一緒に答えを追い求めていきたいと思っています。
岡野 今後のスケジュールを見れば、来年にW杯が控えるなでしこジャパンと男子のオリンピック代表の中継をどのように考えていくのか。いい意味でテレビを通じて盛り上げていくためにも、女子の解説者をしっかりと育てていくことは非常に重要ですよね。
【了】
プロフィール
岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)
1931年8月28日、東京都生まれ。東京大学卒業。1955年日本代表選手を経て、1961年日本ユース代表監督に就任。1964年東京五輪、1968年メキシコ五輪ではコーチとして参加し、メキシコ大会では銅メダルを獲得。1970~1971年には日本代表監督を務めた。1960~1990年、NHK、テレビ東京「ダイヤモンド・サッカー」の解説者として低迷期の日本サッカーを陰で支える。1965年、日本サッカーリーグの創設に関わり、1993年Jリーグの理事。また、日本サッカー協会では、理事、副会長として2002年FIFAW杯招致に尽力。1998年会長に就任し、大会を成功に導いた。FIFAでは、W杯組織委員会委員、オリンピックトーナメント組織委員会委員。また東アジアサッカー連盟初代会長を務めた。
金子勝彦(かねこ・かつひこ)
1934年8月30日、神奈川県生まれ。中央大学を卒業後、大阪毎日放送を経て、東京12チャンネル(現テレビ東京)に入社。1968年にスタートした「三菱ダイヤモンド・サッカー」などを担当し、40年以上にわたりサッカー中継の実況をつとめた「サッカー実況アナウンサー」の草分け。「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかがでしょうか」のフレーズで始まる「三菱ダイヤモンド・サッカー」は、当時、情報量の少なかった海外サッカーを紹介する「世界への窓」ともいえる唯一のテレビ番組であった。1974年には、日本史上初めてFIFAW杯が衛星生中継された西ドイツ大会の決勝戦を実況した。テレビ東京退社後も、フリーランスアナウンサーとして活躍。民間放送や衛星放送で、今も現役アナウンサーとして英プレミアリーグ等を担当。2002年Jリーグ特別功労賞受賞。2012年第9回日本サッカー殿堂入り。