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日の丸をつけるということ――。W杯に出られなかった時代の証言

98年W杯フランス大会まで、日本はW杯本大会へ出場することはできなかった。しかし、これまで本大会の扉に手をかけたことは二度ある。85年のメキシコ大会予選、もう1つは93年アメリカ大会の予選である。本大会出場の目前まで戦った木村和司、都並敏史、そしてチームを率いた森孝慈の3名に、当時を振り返りながら日の丸をつけることとはどういうことかについて話を聞いた。(原稿執筆2010年2月)

text by 海江田哲朗 photo by Tetsuro Kaieda

木村和司がFKを決めた韓国戦

(原稿執筆2010年2月)

 1985年10月26日、国立競技場。W杯メキシコ大会のアジア最終予選、日本は韓国との第1戦に臨んだ。

 試合前、スタンドの光景を目の当たりにした木村和司は身体の震えが止まらなかった。6万人の大観衆。選手が入場する階段の下から覗くと、バックスタンドの最上部までぎっしり埋め尽くされている。横にいた都並敏史は目を丸くしていた。

「すげえ。こんなの見たことねえぞ」

 選手たちはロッカールームを出て入場口に着くまで、いつもとは違う気配を感じていたが、予想をはるかに超える眺めにただただ圧倒された。

 監督の森孝慈は、同年3月21日に行われた1次予選の北朝鮮戦との違いを思った。その時は国立に2万5000人を集めたが、スタンドでは北朝鮮の国旗が幅を利かせ、およそ6割が在日朝鮮人の観客と思われた。

 今日は完全にホームゲームの雰囲気だ。陰ながら日本を応援してくれていた人々が、大一番のゲームに駆けつけてくれたんだと感謝の思いを強くした。

 日本は前半30分、41分と失点。43分、木村のFKが決まって1点差に詰めるが、反撃及ばず1-2のまま終了のホイッスルを聞いた。11月3日の第2戦、敵地に乗り込んだ日本は0-1で敗れた。こうして、森監督率いる日本のW杯初出場の夢は散った。

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