グアルディオラのサッカー哲学をつくった幼少期
ヨハン・クライフが切り拓き、ペップ・グアルディオラが進化させたサッカーのコンセプトを、“ストリートサッカーの究極系”と捉える考え方は非常に興味深い。
『ペップの狂気』では、カタルーニャ州サンパドールに生まれたグアルディオラ少年が、夢中でボールを蹴ることを喜びとするストリートサッカーに、朝から晩まで興じていた様子が伝えられている。
本人は「道路でサッカーをするなんて不可能に近い都会の真ん中とは違い、田舎では、ボールを蹴ってトレーニングできる壁付きの家を見つける必要もなかった。いつからサッカーを始めたかなんて、思い出せないけれど、思い出せるのは、いつも私はボールを持っていたということ。
私の子供の頃を思い出す人々はみんな、私がいつもサッカーボールを持ち歩いていたと言うんだ」と振り返っている。サッカー選手はボールを触っているとき、いちばん輝くというグアルディオラの考え方は、この幼少期の経験に基づく。
ボールと、ゴール。
このピッチ上でもっとも重要な2つの要素は、サッカーの価値観における分水嶺とも言える。たとえばサッカーを始めたばかりの子どもは、ボールがすべて。ゴールの存在を強く意識したりはしない。とにかくボールに触るのが楽しい、それだけだ。ストリートサッカーでは、ボールに触りたくて爆発しそうな少年たちが、ドリブルで相手をかわし、相手のボールを奪い、ひたすらそれを繰り返すうちに日が沈む。もしもその場に、ゴール前でフィニッシュだけの仕事を果たそうとするフィリッポ・インザーギがいれば、それは明らかな異端者であるし、逆に自陣ゴールに鍵をかけるようなDFも、ストリートサッカーでは変わり者の部類に違いない。
その後、大人になるにつれて、徐々に11対11の整理されたゲームに参入していく。プレーヤーも観戦者も、より戦術的な駆け引き、あるいはスコアの移り変わりといったものに、ドラマやサスペンス、ミステリーのような面白さを見出し、新たな価値観が生まれていく。
それはストリートサッカーには存在し得ないものであり、そこではボールと共に、ゴールという存在がより強いものになる。楽しさよりも、勝つこと。汚くても、勝つこと。勝利した者以外は、何も語る資格がない。このような考え方が蔓延する大人の世界だ。
そういう意味では、ポジショニングやオフェンシブ・プレッシングなど、クライフやグアルディオラが打ち立てたスタイルは、大人の世界においても、少年らしい純粋無垢なボールの価値観を守るための処世術とも言える。