際立って衰えたわけではない遠藤
遠藤保仁をジョーカーとして使うことに、果たして「理」と「利」はあるのか――。
長らく日本代表の頭脳として君臨してきたボランチの起用法をめぐる、新たなアングルからの問いかけである。昨年冬の欧州遠征で指揮官のアルベルト・ザッケローニが遠藤を切り札的に使って以来、この新手は現実味のあるアイデアとなった。
それにしても、なぜザックは遠藤をサブに回す考えに至ったのだろうか。この期に及んで「ポスト遠藤」の発掘に本腰を入れた、というのは考えにくい。その気があれば、とうの昔に試していたはずである。この選択には何か戦略的な理由があると見ていい。
ベテランの域に達した遠藤の衰えを指摘する声もあるが、事はそう単純ではないような気もする。第一、若い頃からダイナミズムを売り物にはしていない。体力より技術、走力より知力で勝負してきた選手だろう。
看板のインテリジェンスに陰りが見えはじめたら、その値打ちは半減するだろうが、その気配を感じ取る人はむしろ、少数派だろう。際立って衰えた部分が少ないのだとすれば、いったい、ザックの真意はどこにあるのか。
世界仕様のバランス――。
そこに、大きな理由がありそうだ。世界の列強相手に辛酸をなめた昨年夏のコンフェデレーションズカップを通じて、ザックはある確信を深めたような気がする。攻守の「アンバランス」にメスを入れることの必要性だ。そこで、攻守の要衝となるミッドフィールドの中央部に目を向けるのは自然だろう。
本田圭祐、長谷部誠、そして遠藤――。ザックジャパンの「デフォルト」であった3人の組み合わせに、再考の余地がある。悩めるザックは、そうにらんだわけだ。