「何回やられようとも、絶対に前線で闘える選手になりたい」
それでも、愚直なまでに座右の銘である「一生、ダイビングヘッド」に象徴される泥臭いプレーを実践し、北京五輪代表に選出され、2009年にはA代表でもレギュラーに君臨した。
同じ年の本田に肩を並べるには、戦いの場を海外に移すしかない。長友に遅れること約半年。2011年2月にブンデスリーガのシュツットガルトへ移籍し、2013‐14年シーズンにはマインツで15ゴールをマーク。ヨーロッパの主要1部リーグにおける、日本人のシーズン最多得点記録を塗り替えるストライカーに成長した。
ザックジャパンでは2列目の右サイドを主戦場とし、守備にも奮闘しながら、FWとしての矜持は絶対に忘れなかった。相手の最終ラインの裏を執拗に狙い続け、対峙するDFを辟易とさせてきた執念は、釜本邦茂、三浦知良の両スーパースターに次ぐ日本歴代3位となる国際Aマッチ38得点となって結実している。
岡崎自身、ザックジャパンに必要不可欠な存在となった4年間の軌跡をこう振り返っている。
「南アフリカ大会は誰のせいでもなく、自分が勝手にワントップというプレッシャーに負けていた。自分の中では悔しい思い出ですね。いまは何回やられようとも、絶対に前線で闘える選手になりたいと思っている。どんなに苦しいボールでもマイボールにしたり、相手のファウルをもらったり。右サイドをやりながら、心の中でいつもそう思ってきた」
公式記録の上では「パラグアイとの引き分け」で幕を閉じた、南アフリカの地における挑戦。大会直前に守備を重視した「4‐1‐4‐1」システムへと変更し、攻撃の軸を中村俊輔から本田へと変更した一か八かの大手術が奏功したが、一方でもっとできた、もっと攻められたという思いも頭をもたげていた。
【次ページ】前回より上を目指すために。原博実技術委員長の覚悟