明確なチームスタイル。集まり始める選手たち
J2で、ペトロヴィッチ監督は現在の広島サッカーのベースを確立した。1トップ2シャドーや攻撃時と守備時でフォーメーションを入れ替える可変型システムなど、すべてはJ2の戦いの中で監督と選手が共に作り上げた作品であり、どちらが欠けていても生まれなかった。
そして、明確かつ特質なサッカーが確立されると、思わぬ副産物が生まれる。「広島のサッカーをやりたい」という意志をもって、選手たちが広島に集まり始めたのだ。
塩谷司は、国士館大時代に彼を「発見」した恩師・柱谷哲二監督(水戸)の「広島のようなサッカーが、お前には合っている」というアドバイスもあり、大宮や清水の後にオファーした広島を選択した。
争奪戦となった柏好文や横浜FMからのオファーを受けた浅野拓磨も、自らの意思で紫のシャツを着た。過去の広島では考えられない事態である。
一方で西川周作は「GKからつなぐ」スタイルに合う人材を欲していた故に、移籍金を支払ってまで獲得したタレント。前述の塩谷はもちろん、千葉和彦や水本裕貴にしても「ボールを扱える能力を持つCB」という条件に合致していたからこそ、獲得に至った。
重要なのは、知名度や「代表」などの肩書きではなく、「広島スタイル」を実践できる能力を有しているかどうか。コンセプトが確立され、そこに徹底してこだわる姿勢があるから、広島の補強に無駄はない。
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