監督として順調なキャリアアップ。オサスナ時代には快進撃も
現役引退後はメキシコ代表のアシスタントコーチを務め、1995-96シーズンに古巣アトランテの監督としてキャリアをスタート。チームを1部に残留させるも、1年で退任。指導者としての勉強をするために2年間スペインへ渡った。
98年にメキシコへ戻ると、パチューカの監督に就任。当時1部と2部を行き来するエレベータークラブだったチームを強化し、99年の前期ステージで初優勝に導く。
2001年にパチューカでの実績を評価されメキシコ代表監督に就任。02年W杯日韓大会の北中米カリブ海予選において、連戦連敗で敗退の危機にあったチームを建て直し、本大会出場に導く。
また、01年に開催されたコパ・アメリカではグループステージでブラジルを破るなど快進撃を見せて決勝に進出。決勝ではホスト国のコロンビアに敗れるも、準優勝という成果を手にした。
翌02年W杯日韓大会では、クロアチア、エクアドル、イタリアと同組ながら1位で決勝トーナメントに進出。ベスト16で米国に2-0で敗れて大会を去った。
W杯後の02-03シーズンからはスペインの古巣オサスナの監督に就任。積極的な若手の起用とアグレッシブなプレースタイルで着実に強化し、04-05シーズンにコパ・デル・レイ準優勝を果たすと、05-06シーズンには4位と躍進を果たして翌シーズンのチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
クラブ初のCLでは予選でHSVに敗れたことで本戦進出はならなかったが、UEFAカップではボルドー、レンジャーズ、レバークーゼンといった強豪を次々と撃破。準決勝で同国のセビージャに敗れるも、大きなインパクトを与えた。
そして、06-07シーズンにはオサスナでの実績を買われてアトレティコ・マドリーの監督に抜擢。低迷するチームの再建を託されるも7位に終わる(オフにはエースだったフェルナンド・トーレスをリバプールへ売却するはめに)。
07-08シーズンにはセルヒオ・アグエロやディエゴ・フォルランの活躍もあって4位でチャンピオンズリーグ出場権を獲得するも、翌08-09シーズンには成績不振によって解任された。