3時間で売り切れたアビスパ福岡支援ギフト
川原社長の語る「あのとき」とは、1978年を指す。
1950年代、野武士軍団と呼ばれ、日本シリーズ3連覇を成し遂げた西鉄ライオンズは、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと母体を変え、1978年、西武グループに買収された。埼玉県所沢市に移転し、西武ライオンズと名称を変え、現在に至っている。
そうして福岡からプロスポーツの灯が消えた。1988年11月、福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)が誕生するまで、その期間は10年に及んだ。
川原社長は言ったそうだ。
「あのときも地元企業はみんなで頑張ろうと支援した。だが、どこも限度っちゅうもんがある。充分にお金は出しとるやろ。もうこれ以上はできんぞ。そう言い合っていたら、所沢にぽんっと行ってしまった。あれから福岡の人たちがどれほど寂しい思いをしたか。あとになって後悔しても遅い」
宗さんはクラウンライターライオンズ時代の平和台球場の光景を記憶している。
小学生の頃だった。スタンドは閑散としており、試しに数えてみたら100人程度だった。内野と外野の仕切りはなく、スタンドをぐるっと一周できた。一升瓶をぶら下げたおっちゃんが、フェンスにしがみつき、手近な選手に叫ぶ。
「きさん(貴様)、このあと中州に行くことばっか考えとっちゃろうが!」
品のないヤジがばんばん飛ぶ。宗さんはそれが面白くて球場に足を運んだ。平和台球場が主をなくしたのは1、2年後のことだ。
ふくやのアビスパ支援企画は広く伝わり、予約注文が殺到した。(続きは『サッカー批評issue67』にて、お楽しみ下さい)