当初は普及育成部。スケジュールも決まっていた
――引退時には「クラブに残る形になると思うけど、これから話をして決めていきます」とおっしゃっていた覚えがあります。
「最初は流れの通りというか、指導者を目指しながら、そこから自分のやりたい道を見つけるのが良いかなと思っていました」
――監督を目指すことはあまり考えていないと公言してましたよね。それはご自身の性格的なものですか。
「そうですね。こっちのほうがあっているかな、と。サポーターの気持ちであったり、選手の気持ちもそうですが、いろんな人と関わって仕事をやっていく中間の位置にいるような感じですね。裏方に回って人を動かす仕事ですから」
――確かに裏方です。
「育成のほうはサッカーですから、自分の経験というのを直接伝えられる。こっちはボールを蹴らないですし、間接的にサッカーを伝える仕事になりますね。ただ自分がやってきたものも生かせると思ってます」
――とはいえ当初、育成普及部でスクールコーチとして活動することが発表されていた。突然の発表に、周囲も驚いたのではないですか。
「そうですね。スクールも自分の担当するクラスが決まっていて、スケジュールを組んでくれていたみたいで、いろんな方に迷惑をかけてしまいました。電話して伝えたときも、いろんな方に『それでいいのか?』、『大変だよ』と言われました」
――あの座談会からは発表まで約二週間ぐらいだったと思いますが、早い決断でした。
「もともと持っていた思いもありましたし、あの座談会の後に、天野さん達とご飯にいって色々話しました。そのときにはもう決まってましたね。」