代表定着のためにケルンに移籍するも…
岡田武史監督時代に若手主体のメンバーでのぞんだ2010年1月のイエメン戦でキャプテンを務め、ザックジャパン発足後は中心的存在になると期待されていた槙野智章。チーム発足となった2010年10月のアルゼンチン・韓国戦から招集され、2011年アジアカップにも呼ばれたが、ケガで途中離脱を強いられてしまう。
チームの骨格が固まったこの大会に参戦できなかったことは槙野にとって少なからずダメージとなった。彼自身は巻き返しを図るため、2011年1月に移籍した1FCケルンでの活躍を誓ったが、思うように試合に出場できない。10-11シーズンはリーグ戦わずか5試合にとどまった。
「体が大きくない選手でもDFとしてやれるのを見せたいと思って、広島でやってたプレーを完全に捨てたといったらおかしいけど、守備から徹底的にやろうとしてます。ドイツで一番気づいたのは、日本で自分が武器としていたことが向こうではスタンダードだったってこと。
違った強味を見出していかないといけない。だからこそ、攻撃参加より守備なんですよね。より頭を使ってプレーするのが大事だし、そこをしっかりやれば、チームでもコンスタントに出られると思います」と2011年3月のチャリティマッチで代表復帰した際、槙野は守備力向上の必要性を強調していた。
しかし、彼の位置づけはザックジャパンでも中途半端だった。ザッケローニ監督は3月の4日間と6月の約10日間の合宿で3-4-3の徹底を図ったが、槙野が入ったのは3バックの左と左サイドハーフ。
3バックの左はサンフレッチェ広島時代と全く同じポジションなのだが、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現浦和)の3バックとザック監督の3バックは約束事が全く違う。そのことに戸惑いを感じていた様子だった。