「圭佑が来たときのことも、正直、あまり印象に残っていないんですよ」
かつては宮本恒靖、稲本潤一、大黒将志。近年では家長昭博や安田理大、宇佐美貴史ら、数多くの日本代表選手を育成してきたガンバ大阪のアカデミー。本田圭佑もまた、このクラブの門を叩き、ジュニアユースの一員として中学時代を過ごしている。
しかし彼は、ユースに昇格することが叶わなかった。それは本田のサッカー人生で最初に迎えた大きな挫折だったかもしれない。本田はなぜ、ガンバ大阪から去らなければならなかったのか……。
JFAハウス9階、公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)。ここに、中学時代
の本田を知る人物がいる。
上野山信行、55歳――。
09年からJリーグ技術委員長を務めている彼は、92年から96年までガンバ大阪の初代ユース監督として、“育成大国ガンバ”の礎を築いた人物だ。
本田がジュニアユースに在籍していた頃には、育成担当部長や育成・普及部長としてアカデミー全体を統括する立場にいた。
上野山が本田のことを初めて知ったのは、彼が小学6年生のときのことだ。ふたりを引き合わせたのは、上野山と旧知の間柄だった摂津2中サッカー部の顧問、田中章博先生(現摂津4中校長)である。
当時、本田の兄、弘幸が摂津2中のサッカー部でプレーしていて、本田は小学4年生の頃から兄にくっついて来て、中学生の練習に混ぜてもらい、そこで田中の指導を受けていた。
「それまで圭佑のことは知らなかったし、圭佑が来たときのことも、正直、あまり印象に残っていないんですよ。というのも、圭佑と同い年にアキ(家長)がおりましたから。アキは小学生の頃から名が知れ渡っていて、大阪の指導者仲間はみんな『家長はすごい』と騒いでいて、ガンバとしても『なんとしてでも家長を獲れ』という話をしていた。
一方、圭佑はまったく噂に上がっていなかった。田中先生から紹介されて初めて会って、『上手いやないか、じゃあ、獲ろうか』という程度。『ぜひとも』という感じではなかったですね」