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【特別対談】加部究&幸野健一:理不尽が横行する高校サッカーの非常識。真の「プレーヤーズ・ファースト」が浸透するために必要なこと(その1)

シリーズ:【特別対談】加部究&幸野健一 text by 森哲也 photo by editorial staff

日本の教育そのものを変えるべき時期にきていると思う

――幸野さんは今回の書籍を読まれてみて、どんなことを感じられましたか。

【特別対談】加部究&幸野健一:理不尽が横行する高校サッカーの非常識。真の「プレーヤーズ・ファースト」が浸透するために必要なこと(その1)
サッカー・コンサルタントとして活動する幸野健一氏【写真:編集部】

幸野 体罰や暴力、しごきといったことの根本を理解しないと、この問題はなくならないと思っています。まず、明治の時代にエデュケーションという言葉が欧米から入ってきた時に、それを教育という訳し方をしてしまったところから齟齬が生まれている。

 エデュケーションというのはラテン語で「引き上げる」とか「引き出す」、そういう意味があるわけです。それを「教育」としてしまうと、教師が上に立って教えて導くものという形になってしまう。

 福沢諭吉の『文明教育論』を読むと、教育というのは、元々に人は天賦の才能を持っていて、そういうものを引き出し、引き上げてあげるところが学校であり、そういう観点からすると学校の現状は甚だその機能が働いていないと、明治22年に既に彼が言ってるわけなんですよね。まさにその問題が100年経っても同じように続いている。

 僕はそこに最大の問題があると思っています。学校教育もそうなんですけど、スポーツの現場でも指導者という言葉が使われる。英語で言ったらコーチなんですよね。コーチというものはやはりファシリテーター(成長を手助けする人)として、共に才能を引き出してあげるというのが本来の意味なんですけど、日本ではティーチ(教える)になってしまう。

 やっぱり言葉の問題も含めて、そういう思想がずっと教育の中にあって、学校という教育機関の中にスポーツが組み込まれてしまう。だから教育の「育」が入ってしまって体育になってしまう。スポーツとはかけ離れたものになってしまって、そこでは教師が監督になり、進路だったり成績だったりが人質のように扱われ、指示に逆らうことができないし、体罰とかいろいろな問題が出てくる。

 だから僕は日本の教育そのものを変えるべき時期にきていると思う。スポーツだけじゃなくて、ビジネスにおいても世界に出て戦っていくためには、これまでの日本人の教育観を変えていかなきゃいけない。

 実際ビジネスの現場ではプレゼンテーション能力やコミュニケーション能力を求められているにもかかわらず、学校に行ったら相変わらず一方通行の授業をしているところが多いわけです。生徒本来の才能を引き出すような授業をやっていない。

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