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痛み止め注射が美談に、燃え尽きへの懸念も。問われる高校サッカー選手権の存在意義

体罰やしごきが社会問題になりながらも、未だに一部のサッカー強豪校や伝統校では、行き過ぎた指導が行われている。なぜ理不尽な指導はなくならないのか? このほど出版された加部究著『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(カンゼン)の中でその実態が明らかにされている。(文中のイニシャルは書籍とは異なります)

text by 加部究 photo by Kazhito Yamada / Kaz Photography

大きな分岐点となった日テレの参入

 全国高校選手権は、1917年度に大阪で幕を開けた(1966年度から、現在の大会名称が定着している)。大きな分岐点となったのは1976年度(第55回)の大会だった。1970年度から中継を始めた日本テレビが主導し、開催地を大阪から首都圏へと移転する。

 準決勝と決勝の舞台は、聖地と呼ばれる国立競技場。大会は新しい歴史を刻み始めた。

 大阪最後の大会と、東京初の大会で連覇を果たした浦和南高校監督(当時)の松本暁司が、開催地移転の背景を解説してくれた。

「最大の理由は観客動員です。大阪最後の決勝戦は長居で行われましたが、テレビで映るバックスタンドには観客が入っていても、メインスタンドの方は役員がパラパラといる程度でしたからね」

 最大の狙いが観客動員だったことを考えれば、開催地移転は大成功だった。記念すべき国立最初の決勝カードは、準決勝でライバル帝京をPK戦の末に下した浦和南と、当時としてはゆっくり丁寧に大胆にボールを運ぶ独特のスタイルを提示した静岡学園。

 1977年1月8日、オーソドックスでダイナミックな伝統校と、先鋭的な新興校という対照的な顔合わせが興味を呼び、スタジアムはキックオフ後も途切れることなく観客を吸い寄せ、遂に試合途中にはスタンド上段まで埋まり切った。試合はスリリングな展開となり、浦和南が5-4の乱戦を制して連覇を達成。以後全国高校選手権は、冬のスポーツの風物詩として定着していく。

 逆に日本サッカーは、すっかり冬の時代を迎えていた。1968年にメキシコ五輪の銅メダル獲得で第一次ブームを迎えたが、その後五輪、ワールドカップともに出場権を逃し続け、皮肉なことに日本の頂点を競う日本サッカーリーグの1試合平均観客動員は、高校選手権が東京へ移転した1977年に史上最低の1773人に落ち込んでいた。

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