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【サッカー狂・佐山一郎の嘆き】サッカーメディアの質が、平均点止まりになる理由

text by 佐山一郎

メディアに必要な「個」の力とは?

昭和40年代に創刊された主なサッカー雑誌
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上記の雑誌は日本蹴球協会(・JFA)が、協会創立50 年を記念して昭和49 年に発行した『日本サッカーのあゆみ』に「定期刊行物(主なもの)」として掲載されているもの。現在も残るのは『サッカー・マガジン』(※注:2013年11月より『サッカーマガジンZONE』)のみだが、当時から新聞、海外情報を扱う『イレブン』など多種多様の雑誌があったことがわかる。

 思うに、ここでこういう風にやっちゃったら、あとで縫い合わせるのが大変だぞ、メディアの自殺だぞという切断点がいくつかあったんだと思います。Jリーグになってからの成り上がり選手の法外取材謝礼要求を黙認したこと、中田英寿の取材時の弁わきまえのない振る舞いの放置、それと代表チーキーボーイたちの不平や思い込みを美化した金子達仁の一連の著作人気も忘れられない現象でした。

 壮士風文体でいい切るドラム連打に酔えた人は仕合わせです。実は袋小路の物語でしかないその程度のことがオルタナティブなのかということには驚くばかり。長年苦労していた『ナンバー』にも、F1のアイルトン・セナ(1960-1994)とサッカー人気でついにバブルが訪れたんです。脳電位が高まって、電荷を帯びたいたるところで火花が散った状態からかれこれもう10数年ですか…。

 思うようには売れ行きが伸びなかった『ナンバー』は90年代前半までの苦しいときに猫やSL特集の増刊までやっていた。今、思い出したんだけど、なぜかぼくは同じケイスケでも、本田じゃないほうの桑田佳祐インタビューを『ナンバー』でしている(笑)。「たとえ一人でも、世界を変えてみせる」と心のどこかで思っている人がもう少し増えないと、スポーツ・ジャーナリズムの先行きは攻撃と腐敗にさらされるばかり。でも媒体の商品価値以前に、かかわる人たちが人間としてダメならその媒体もダメなんだというのをモットーにしていかないと存在理由からして怪しくなってしまう。

 フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)が残した言葉のように、「資本の文化ではなく、文化が資本になる必要がある」んじゃないですか。世界陸上の中継でなぜTBSは「ドーピング」という言葉を避けたのですか。選手諸兄姉、アディダスの履き心地、蹴り心地、着心地は実際のところどうなんですか。利潤の追求が文化・芸術の否定になっちゃいけないんです。それを跳ね返す力が、ぼくの考える「個」の強さなんです。(談)

【了】

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