日本とブラジルの“距離”
国には人と同じように相性がある。
初めてブラジルを訪れたのは、95年1月のことだった。リオ・デ・ジャネイロでジーコのサッカーセンターのオープニングに立ち会い、サンパウロでルッシェンブルゴ監督の率いるパルメイラスの攻撃的な試合を観た。
ぼくは元々ガルシア・マルケスやバルガス・リョサといったラテンアメリカ文学を読み耽っていた。サッカーをきっかけに、ラテンアメリカ、特にブラジルへとぼくは惹きつけられることになった。
今と違って、日本とブラジルの心理的な距離は遠かった。ポルトガル語の辞書は小さなものしかなく、言葉を学べる場所も限られていた。そこでまず、NHKのラジオ講座でスペイン語を学ぶことにした。当時、ぼくは週刊誌編集部で働いていた。取材の行き帰り、録音したスペイン語講座をひたすら聴き、言葉を覚えたものだった。
拙著『ザ・キングファーザー』(カンゼン)にも少し触れたように、97年から98年に掛けて、ぼくは働いていた出版社を休職し一年間、南米大陸を放浪している。まずはアパートを借りていたサンパウロに滞在した。
ポルトガル語とスペイン語は同じラテン語から派生しており、文法は同じである。ただ、日常会話に使う単語、リズムが全く異なっている。毎朝、アパート近くのバールで辞書片手に新聞を読み、ポルトガル語を覚えていった。
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