三兄弟で草サッカーに明け暮れる
遠藤保仁が6つ上の長男・拓哉さん、4つ上の次男・彰弘さんに続く遠藤家の三男として鹿児島県で生まれたのは1980年1月28日。故郷・桜島は今でこそ鹿児島県に編入されているが、当時は人口8500人しかいない小さな田舎町で、鹿児島市内との間を結ぶフェリーも24時間運航ではなかった。
三男出産に当たり、夜遅くに母・ヤス子さんが産気づいたとき、すでにフェリーはなく、父・武義さんが漁船を持つ知人に頼んで市内まで連れていくことになった。
「鹿児島の古いしきたりで『男がいると難産になる』と言うので、すし屋で飲んでいました。家に帰ってくると力強い鳴き声が聞こえました。看護婦さんに『女の子ですよ』と言われ、上2人が男の子だったので喜んでいたら『すみません、勘違いでした』と。拍子抜けしたのをよく覚えています」と武義さんは笑う。だが、すくすくと育ち、2人の兄からかわいがられる三男坊の様子を見るにつけ、父は「男の子でよかった」と心から思ったようだ。
桜島が九州屈指のサッカーどころだったこともあり、遠藤家の息子たちは物心がつくと自然にボールと戯れるようになった。保仁少年も兄たちに交じって保育園の頃から泥だらけになるほどボールを追いかけまわした。
「毎日学校へ行く前にウチの庭で30分くらい、兄2人と近所の兄弟と5人で草サッカーをやるのが日課でしたね。僕の上の兄貴と友達兄弟の上が2人で組んで、アキと自分と友達兄弟の弟がグループになる形で、3対2を毎日のようにやっていました。上の兄貴とは6つも離れているし、成長するにつれて体のハンディも大きくなるので、なかなかボールも取れなかったけど、ガムシャラにボールを追いかけていた。兄貴たちが憧れだったし、一番のお手本だったのは間違いないですね」
遠藤はそう幼い日々を振り返る。
子どもが庭や家の中でサッカーをすれば、窓ガラスが割れたり、物置が壊れたりするのはしょっちゅうだ。けれども遠藤家の両親は一切文句を言わず、三兄弟の真剣勝負を横目で見ていた。そのおおらかで自然体の子育てが子どもたちに好影響を与えたのは事実だ。
保仁少年が桜島町立桜州小学校のスポーツ少年団に入ったのは小学3年生のとき。1~2年は入れない決まりになっていたので仕方なかったが、サッカー大好きっ子は1年生時から花壇に腰をかけて、よく練習を見ていた。「ヤットは本当にサッカーが好きだったね」と当時の指導者・藤崎信也さん(現桜島中学校サッカー部コーチ)は目を細める。
小学校で練習を見るだけでなく、長男が持ってきた選手権やトヨタカップの試合のビデオを擦り切れるほど見るのも日課になった。あまりにも特定の試合を見すぎて、流れをすべて覚え込んでしまい「そろそろ点が入るよ」と言うので、父・武義さんも面喰うことが多かった。
保仁少年がそこまでしてビデオに釘づけになったのは、うまい選手に憧れ、プレーを真似したいという純粋な思いからだった。
「ああいうプレーがカッコいいからやってみようとか、そういう好奇心が強かった。僕らの頃はテレビでサッカーをやっているのが少なくて、同じものを何回も見るしかなかった。それでも楽しかったですね。大人になってみると、人のプレーを見て学ぶことの大切さをすごく感じます」(遠藤)
続きは『ジュニアサッカーを応援しよう!VOL.31』にて、お楽しみ下さい。