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日本代表 11年前

02年は中山・秋田、10年は川口が“まとめ役”として貢献。ザックジャパンに“ベテラン枠”は必要か?

text by 藤江直人 photo by Kazhito Yamada / Kaz Photography

急遽招集された中山、秋田、川口

 2002年はメンバー発表直前の5月に敵地オスロでノルウェー代表に0対3と完敗したこともあり、フィリップ・トルシエ監督が30歳代の選手がいないチーム編成に突如として不安を覚えたのだろう。

 中山がつけた背番号「10」は、直前で落選した中村俊輔(横浜F・マリノス)に用意されていたものだと容易に察することができる。アントラーズの強化担当者のもとへ、日本サッカー協会から秋田のコンディションを確認する電話が入ったのはメンバー発表の前日だった。

 2010年は2月の東アジア選手権の韓国代表戦や、4月のセルビア代表との親善試合で立て続けに惨敗するなど、チーム状態は下降線の一途をたどった。W杯に備えてエスパニョールからマリノスに復帰した中村のコンディションも一向に上がらず、チーム全体が閉塞感に支配されていた。

 何らかのカンフル剤が必要不可欠だった状況下で、岡田武史監督は前年9月に右すねを骨折し、ジュビロでもリハビリ中だった川口をチームキャプテンに指名するウルトラCを決断。チームのV字回復と下馬評を覆してのベスト16進出を、川口は縁の下で支え続けた。

 一方で、1998年大会は開幕直前の段階で、31歳のFW三浦知良(ヴェルディ川崎)がコンディション不良で代表から外されたことが、国際経験の乏しかったチームに少なからず動揺を与えた。

 2006年大会は孤高の感があったMF中田英寿(ボルトン)と周囲との溝が最後まで埋まらず、後にジーコ監督が「腐ったミカンがいた」と週刊誌上で暴露したように、サブ組の一部がふて腐れる事態も発生。キャプテンのDF宮本恒靖(ガンバ大阪)だけでは、手に負えない状況に陥ってしまった。

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