柿谷は「世界」を感じた?
「世界」とは、具体的にどこからどこまでの何を指すのだろうか、という違和感である。なんとなくは分かる。「世界標準」「ワールドスタンダード」といったような、海の向こうの、本場の技術レベルのある世界…と言葉で現すのはやはり難しい。
そういった「世界」というある種日本特有の感覚を全否定するつもりはない。しかし、具体性の持たない曖昧模糊とした何かを意識しても、具体的な成果を得ることはやはり難しいのではないだろうか。
オランダ戦の前日、諸事情で僕の部屋でプリンタが使えないので、街角のコピー屋でツアーのバウチャーをプリントアウトしてもらった。担当したドイツ人のオヤジは、バウチャーを眺めて「日本対…オランダ?ははっ」と鼻で笑った。
そこから感じ取れたのは、「お前らオランダとやるのか、大変だな」といった軽いニュアンスで、そこに「お前ら世界とやるのか」という緊迫感は欠片もなかった。
「世界」に住むドイツ人なのだから「世界」のオランダに緊張感を覚えないのは当然だ、という見方も出来るが、こう書いてしまえば「世界」という言葉の空疎さが良くわかる。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とはよく言ったものである。
そこで柿谷が件のシーンで1対1を外した理由だが、彼の意識の潜在化に「世界」に対する刹那の戦きがあったのではないか。柿谷のフィニッシャーとしての技術を考えれば、あの瞬間オランダの息の根を止めていてもおかしくはなかった。
僕が「landerspiel」という言葉の中に、「土地、田舎」と「国」という意味合いが同居することに違和感を覚えたのも、国外に「海外」といった大袈裟なイメージ、つまり「世界」を意識していたからだと思う。
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