貧しい家に生まれたジエゴ・コスタ
ブラジルの歴史を紐解こう。
ブラジルはポルトガル人によって1500年に“発見”されたとされている。とはいえ、人類が住んでいた場所を発見というのが正しい表現かどうかはここでは触れない。
ともかくポルトガル王室は、自国の入植者にブラジルの土地を無償で与えた。もちろん、未開拓の地である。入植者は自らで開拓しなければならなかった。入植者を束ねる政治体制も王室が定めた。ブラジルを15の地域に分割、12人の貴族を世襲領主に任命した。領主は地域内の司法、立法、行政の三権を与えられた。欧州の枠組みをブラジルに押し付けたのだ。
ブラジルで最初の産業となったのは砂糖きび栽培だった。
この大規模な砂糖きび農園を運営したのは、ポルトガル入植者たちの子孫である。そして働かされたのがアフリカからの奴隷だった。サンパウロやリオ・デ・ジャネイロは近代化され、中産階級が生まれたが、ノルデステはごく一部の富める者と、大多数の貧民という構造を引きずっている。
ジエゴ・コスタもノルデエステの例に漏れず、貧しい家に生まれた。
サッカーを本格的に始めたのは九才の時、『ボーラ・ジ・オウロ』という貧しい子どもたちを支援するプロジェクトだった(ジエゴ・コスタは今、このプロジェクトを支援している)。そして14才の時、サンパウロで代理人の目に留まった。
ヨーロッパで経験を積むべきだと考えた代理人は、ジエゴ・コスタはポルトガルの『スポルティング・ブラガ』へ連れていくことになった。その後、将来性を見こんだ隣国スペインの名門『アトレチコ・マドリー』と契約したが、出場機会はなかった。そこで『セルタ・デ・ビーゴ』『バジャドリッド』などにレンタルされた。