サッカー協会会長に出した一つの条件
ドゥンガに代表監督就任の打診があったのは、2006年W杯ドイツ大会直後のことだった。
「W杯が終わってから三週間ぐらい後のことだったかな。ドイツで家族と日本食レストランで食事をしていたんだ。ぼくは当時、携帯電話を二つ持っていた。その一つは暗証番号を忘れてしまったので電源を切ったままだった。
うちの息子がその暗証番号を覚えているというので電源を入れてみると、着信があった。その番号はブラジルサッカー協会会長のリカルド・テシェイラのものだった。電話をしてみると、話をしたいという。そこですぐにリオ・デ・ジャネイロに飛んで、監督就任について話し合うことになった」
ドゥンガは、代表はもちろんだがクラブチームでの監督経験もなかった。
自信があったのかと尋ねると、「その答えは難しい。ただ言えるのは、熟考すれば、ブラジル代表監督を引き受ける人間はいないということだよ」と笑い飛ばした。
ドゥンガは監督を引き受けるにあたって、テシェイラに一つの条件を出した。それは「現場に口を挟まない」ということだった。
ドゥンガの方針は明確だった。
「セレソンは世界中の人から一目置かれる存在だ。セレソンでプレーすることは、大きな喜びも得られると同時に大きなプレッシャーと犠牲の精神が求められる。時に家族を犠牲にしなければならない。だから最近はセレソンには選ばれたいけれど、セレソンでプレーしたくないという選手がいたように思える。そうした選手をぼくは選ばない」
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