「何か悪いことがあれば新聞などで全て僕の名前を結びつけて書かれるんだ」
ブラジルでの彼の評価は少々違っている。
ドゥンガが最初にこっぴどく叩かれたのは、90年イタリアW杯後のことだ。ブラジル代表の監督だった、セバスチャン・ラザロニは過去2大会の反省を踏まえて、ブラジル代表の方針を変えた。
82年、86年の2大会を率いていたのはテレ・サンターナである。テレのサッカーは攻撃的で即興性を重んじた。短期決戦のW杯では一瞬の隙を突かれて失点することが敗退に繋がる。そこでラザロニは堅実に戦うために、強く守備的な選手を招集した。その1人がドゥンガだった。
ブラジルはグループリーグを3戦全勝で勝ち抜いたが、決勝トーナメント1回戦でマラドーナのいたアルゼンチンに敗れた。
ブラジルにとってアルゼンチンは特別な国である。決して負けてはならない隣国である。守備的で面白みのないセレソンのサッカーは「エラ・ドゥンガ」(ドゥンガの時代)と呼ばれ、批判された。
ドゥンガは当時をこう振り返る。
「とにかくひどかった。何か悪いことがあれば新聞などで全て僕の名前を結びつけて書かれるんだ。なるべく目にしないように前向きに考えるようにしたものだよ」
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