ラモス氏のJリーグ監督時代というのは、2006年からJ2に降格した東京ヴェルディ1969(当時)で指揮を執ってた2年間たらずである。当時の東京ヴェルディを密着取材していたサッカーライターのいしかわごう氏は、Jリーグ監督時代となる2年間の手腕をこう振り返る。まず昇格に失敗した2006年シーズン。
「1年目は監督としての経験不足が大きかったと思います。J2降格によって昨年までの主力が移籍し、思うようなメンバーが揃わない中でも自分の理想とするサッカーを表現するチーム作りをしてしまった。
そのため、試合によって好不調の波が激しいチームになってました。うまくいかない試合では、『練習でやっていることが、なぜ本番でできないのか。選手がわからない』と監督会見でよく嘆いてましたね」
しかし2007年にはフッキ、ディエゴ、名波浩、服部年宏、土屋征夫など大型補強を敢行し、見事に2位でJ1復帰を果たしている。どんなチームマネジメントを見せていたのだろうか。
「2年目は、J2では破格の補強をした甲斐もあり、スタートダッシュに成功しました。しかし相手に研究されると、クラブワーストの7連敗を喫してしまい、途中から軌道修正を余儀なくされました。
ラモス氏は理想とするヴェルディらしいパスサッカーではなく、フッキの得点力を生かすようなカウンターサッカーに戦い方を切り替えました。ここらへんは、昇格という目標の為に我慢したのだと思います。ときには『攻撃はフッキ頼み』と揶揄されてましたが、『フッキに点を取らせる戦い方をしているんだから、当たり前じゃないか』とムキになって反論していたこともありましたよ。
結局、フッキだけで42試合で37得点取りましたし、将来的にブラジル代表のレギュラーを張る選手でしたから、この策は正しかったと思います。前線はフッキとディエゴのコンビネーションで点を奪い、後ろは服部年宏、土屋征夫などの経験値の高いベテラン陣が引き締める。これでシーズン後半はほぼ負けなしで、昇格を果たしました」
クラブはJ1復帰を果たしたが、ラモス氏は翌年の指揮を執らず、幹部としてフロント入り。監督を務めたのは柱谷コーチとなった。いつか現場に戻りたいという希望はあったものの、その後はJクラブで指導者としてのキャリアは積んでいない。
「だから、ラモスさんが監督としてピッチで表現したかったサッカーチームは、いまだ見せてもらっていないんです」といしかわ氏は言う。
そして見せたビーチサッカーの日本代表監督としての手腕。だが9月30日、東国原英夫のTwitterでは
「つい先程、赤坂のコンビニでカリオカ(ラモス瑠偉)に、偶然会った。ビックリした。意外な場所で意外な人物と遭遇。カリオカは、ビーチサッカーは暫く休んで、また11人サッカーの方に戻るらしい。お互い、頑張りましょう!」とのつぶやきが。
もしかしたら、来季、どこかのJリーグクラブで指揮を執る可能性もあるのかもしれない。今後の動向に注目である。
【了】
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