「B代表以下」だった理由
ブラジルではレギュラーが1番から11番をつけることが常である。コンフェデで中心選手となる背番号をつけた選手といえば――「7番」レアンドロ・カマラ、「10番」ホベルチ、「11番」カルロス・ミゲル。世界的には全くの無名の選手だ。
また、フォワードの軸として起用されたのは「21番」のワシントンだった(ブラジルの中堅クラブ『ポンチプレッタ』所属のワシントンはその後、ヴェルディや浦和でプレーすることになる。10番のホベルチは2003年にサントスからJ2の札幌へ移籍した)。
ロナウド、ロマーリオ、リバウド、ロベルト・カルロス――その誰もがいないセレソン。ブラジル国内では、B代表以下と揶揄された。
このブラジル代表はコンフェデ杯で4位に終わり、レオンは監督を解任された。
こうした奇妙な代表となったのは、幾つか理由がある。
欧州クラブ所属の選手を招集できなかったこと。そして、国内の州選手権と日程が重なった。
こうした代表選考となったのは他にも“理由”が存在するのだとソクラテスが教えてくれたことがある。
「欧州をはじめ国外のクラブに移籍する時、“ブラジル代表”という経歴があるかどうかで、値段がずいぶん違う。一度でもセレソンに選ばれていれば、“元ブラジル代表”として価格は跳ね上がる。
代理人と結託して“セレソン”を与える監督、あるいは自らが密かに代理人になっている選手を選ぶ監督もいる。ブラジルサッカー界は腐りきっているんだ」
ソクラテスの指摘が正しいかどうかははっきりしない。しかし、セレソンには少々変わったメンバーの試合が存在し、その経歴が売り物となってきたことは間違いない。
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