審判員だけに向く批判の矛先
そのようにサッカー界が徐々にプロとして成熟していく流れに、我々メディアもついていかなければいけない。
私たちは、“審判問題”と声高に叫ぶが、一方で他の試合では“審判問題”が起きずに試合が終わっているのを忘れているのではないだろうか。まるで日本の審判員全てが劣っているようなステレオタイプな論調になりがちだが、審判批評サイトでは「ストレスなく試合を観ることができた」という声もサポーターからあがっている。
その一方で、対浦和戦第5節終了後、ジョルジーニョ監督が語った「前監督のオリヴェイラ監督からも言われました。『(日本には)全てにおいて素晴らしいサッカーの環境が整っている。唯一、駄目な部分というのが、レフェリングのことである。良くしようという考えを僕らが持っていたとしても、1つのことがサッカーの発展を妨げてしまっているという部分が現実的にある』」という言葉だけが一人歩きしてしまっている。
今年、FC東京を指揮するポポヴィッチ監督は、第5節の川崎戦において、試合中にリアクションで異議を示した。さぞかし不満かと思いきや、「全体的には良かった。基準も明確で、両チームにフェアだった」と答えた。もちろん、微妙な判定に見えた2つに対して「あのシーンとあのシーンは」とも付け加えたのだが、審判批判はこうあるべきだと思う。
しかし、日本での審判批判となると、まるで犯罪のように追い詰めていく。例えば、第6節のFC東京×鹿島戦。問題として論じるべきは、新井場のバックパスで、支離滅裂な判定が多発したわけではない。
イエローカードの対象となった【距離不足】は、リプレイを見比べればあきらかなものだったが、検証ではなく、「ミスを認めろ。辞めろ」といった論調に偏る傾向があるのではないか。欧州でも、メディアの煽動とファンの敬意なき行動に嫌気がさし、優秀なレフェリーが辞めてしまい問題になった。