F・マリノスで得た大きな財産
そんなサッカー人生を象徴する出来事がある。それは2002年の冬に訪れたプロ生活初のビッグイベント。
東京ヴェルディ1969(現東京ヴェルディ)から横浜F・マリノスへの移籍である。
当時の中澤はプロ3シーズン目を終えたばかりとはいえ、ヴェルディで主力の座をつかみ、ルーキーイヤーの1999年以降から毎年日本代表メンバーに名を連ねてもいた。2000年にはシドニーオリンピックとアジアカップにも出場。その順風満帆なプロ人生において新たな環境を選択する必要があったのか。特に2002年のシーズン途中には日韓ワールドカップを控えており、一つの選択ミスによって状況が激変してしまう危険性もあったはずである。
だが、中澤の頭には挑戦の二文字しかなかったようだ。
「あの時はヴェルディで試合に出るのが当たり前だと感じてしまっている自分がいた。確かに練習もしっかりやっていたし、それ以外の部分も一生懸命やってはいましたけど、ヴェルディにいて何か引っかかるものがあったんです。代表にいくたびにそれを痛感させられるんですよ。他の選手と比べて、『あ、おれって全然ダメじゃねえか』、と。どこかで何かを変えないと、代表で一緒にやっていたメンバーに追いつけないし、追い越せないだろうなと思ったんですよね」
そのようなタイミングで届いたのがF・マリノスからのオファー。心は大きく揺れた。
サッカーを始めた小学校6年生からディフェンダー一筋で歩んできた中澤にとって、伝統的に守備が強いF・マリノスはもともと好感が持てるクラブだった。加えて、当時は松田直樹や波戸康広といった日本を代表する守備陣が在籍しており、プレーを磨くには最高の環境に思えたのである。
「特にマツさんの存在というのは、僕の中で大きかったですね。代表で一緒にプレーしていても、すごくいいディフェンダーだなって思ってたし、そういうプレーヤーと一緒にやっていいものを盗むと同時に、自分を鞭打つくらいのところまで追い込まないといけないという思いがあったんですよ。
そうしないと日韓ワールドカップにも選ばれないと思ったので。たとえ最終的に選ばれないにしても、自分の中で何も変わらないまま選ばれないのと、自分の中で変わったけど選ばれないというのではだいぶ違うと感じていたんです」
結局、悩んだ末に移籍を決め、日韓大会に向けてラストスパートをかけた。代表選考までわずか4ヶ月足らずでの決断だった。
続きは『フットボールサミット第14回 横浜F・マリノス 王者への航路』にて、お楽しみ下さい。