サッカーという“民衆の支持”
メキシコW杯の後、コウチーニョはペルー代表、ブラジルのバスコ・ダ・ガマのスーパーバイザー、フランスのオリンピック・マルセイユのフィジカルコーチ、ブラジル五輪代表のフィジカルコーチなどを務めた後、76年にブラジル五輪代表監督なった。
五輪代表監督の後、コウチーニョはフラメンゴの監督となった。そこには若きジーコがいた。
「コウチーニョは抜群の頭脳を持っていた。ただ、監督になったばかりの頃は、74年W杯のオランダ代表のことを意識しすぎていた。クライフがいたオランダのトータルサッカーをやるように僕たちにも望んだ。監督としての経験が少なかったことも理由だと思うけれどね」とジーコは当時を振り返る。
コウチーニョはバレーボールの選手ではあったが、高いレベルでのサッカーの経験はなかった。
77年2月16日、W杯南米予選でブラジル代表はコロンビア代表をボゴタで試合を行い、スコアレスドローに終わった。この結果を受けて、監督のオズワルド・ブランダンが解任、コウチーニョが監督に就任した。コウチーニョが監督となったブラジル代表は、南米予選を勝ち抜き、アルゼンチンで行われたW杯に進んだ。
この大会でブラジル代表は招かざる客だった。
アルゼンチンの軍事政権もまた、サッカーという“民衆の支持”を必要としていた。
ブラジル代表は一度も敗れることなく、得失点差でアルゼンチンを上回れず、3位で大会を後にした。あらかじめアルゼンチンが優勝するように仕組まれた大会だったのだ。
後に二次リーグ最終戦でアルゼンチンと対戦したペルー代表は得点操作に手を貸したことを認めている。ブラジルでは78年のセレソンを「モラルのチャンピオン」と呼んでいる。