コウチーニョが持ち込んだ最先端の理論
政府の意向を受けて、代表の強化に乗り出したのが、ブラジルスポーツ連盟(CBD)の会長だったジョアン・アベランジェだった。
ブラジルの選手は技術面では優れているが、フィジカルの強さでは欧州に劣る、というのがアベランジェの見立てだった。
60年代、ブラジルではフィジカルトレーニングという概念がなかった。そこでアベランジェはブラジル軍隊のトレーニングをセレソンに取り入れることになった。そこで、クラウジオ・コウチーニョに白羽の矢が立てられた。
コウチーニョは1939年1月5日にブラジルの南部、ウルグアイ国境に近いドン・ペドリーニョという街で生まれた。陸軍に入隊後、砲兵隊長に昇格。その傍ら、運動生理学にも興味を持ち、『軍教練学校』も卒業している。
彼はポルトガル語の他、英語、フランス語、イタリア語を流ちょうに話し、バレエ観賞を趣味とする知的な男だった。68年、コウチーニョはアメリカでケネス・クーパーの教えを受けている。
運動生理学者であるクーパーは、アメリカ空軍で宇宙飛行士の心肺機能強化のために、エアロビクスを開発したことで知られている。当時の最先端だったフィジカルトレーニングをコウチーニョはセレソンに持ち込んだのだ。
アベランジェの思惑通り、70年W杯でブラジル代表は優勝を成し遂げる。軍事政権に貸しを作ったアベランジェは、政府の全面的な協力を得て74年の国際サッカー連盟(FIFA)会長選挙に立候補、当選した。この選挙活動では出所不明な、莫大な金が動いた。これは軍事政権が供出したものとされている。
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