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連載コラム 11年前

W杯前に知っておくべきブラジルフッチボール。ザガロが背負ったセレソン監督という重圧

「ペレが私と一緒にプレーしたと言うべきだよ」

 ザガロは31年8月に生まれ、リオ・デ・ジャネイロ州の『アメリカ』で選手としてのキャリアをスタートさせた。

 赤と白のユニフォームのアメリカは、リオでは「二番目のクラブ」と呼ばれることがある。フラメンゴやフルミネンセ、バスコ・ダ・ガマのサポーターが二番目に好きなクラブとして名前を挙げることが多いのがアメリカだ。ちなみにジーコの兄、エドゥー・コインブラはこのクラブの伝説の選手の一人である。

 アメリカからフラメンゴ、そしてボタフォゴへと移籍した。58年ワールドカップ、スウェーデン大会でセレソンの一員として優勝メンバーとなっている。この大会はセレソンにいた17才の新鋭選手を世界に知らしめることになった。ペレ――である。

「ペレは17才、私は27才。だから、私がペレと一緒にプレーしたのではなく、ペレが私と一緒にプレーしたと言うべきだよ」

 この口癖で分かるように、彼は相当に鼻っ柱が強い。

 そんなザガロにブラジルのメディアは意地悪だった。インタビュー中で彼は何度も選手の名前を間違えたようだ。その記事は〈原文ママ〉という脚注が入れられて訂正されていなかった。60代後半に差し掛かっていたザガロの記憶力の低下を揶揄していたのだ。

 ザガロが率いるセレソンは、97年のコパ・アメリカで、グループリーグを全勝で通過し、決勝トーナメントでもパラグアイ、ペルーを破った。ペルー相手には、7対0という大勝だった。

 決勝では地元のボリビアを相手に3対1と勝利した。勝利が決まった後、ザガロはテレビ局のカメラに向かって、かん高い声で「馬鹿野郎、見たか、俺のチームを」と叫んだ。

 白髪のザガロが興奮して悪態をつく姿はかなり奇異に映った。

【次ページ】監督としての役目
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