アスリートが練習を見せるのは恥?
1996年9月、“えたいのしれない気障な”フランス人がハイベリー(当時のアーセナルのホーム)に乗り込んできて「君たちの体調管理を一から見直す。
その第一歩として飲酒は出来る限り謹んでもらいたい」と宣言したとき、アダムズらと「フェイマス・バック4」(鉄壁のディフェンスでつとに名を知られたアーセナルのバックライン)を成すライトバック、リー・ディクソンは「おや、へえ、そうかい」と思わず鼻で笑ったという。
ところが、「しゃあない。一応言う事をきいてやるか」と、しぶしぶながら従ううちに、体の動きがめっきり軽くなってきて、この新しい指揮官をチーム全員が見直すようになったと告白している。“反逆”したマーソンがセミリタイアを強いられたのも“効いた”。
こうして、ヴェンゲルの“画期的な教え”は、プレーヤー間の口伝いに徐々にプレミア全体に浸透していったと考えられるが、ただし、その後のヴェンゲルはむしろ「(飲酒を除く)イングランドのフットボール文化」を積極的に吸収し、その長所や利点を認め、愛してきたと言っても過言ではない。
例えば、もう一つのアイデンティティーとして古くから英国内で受け継がれてきたと思われるものに、「アスリートは極力、努力(練習)している様子を他人には見せるのは恥じに等しい」という共通認識がある。
筆者もかの国のパブリックスクール時代、たかが十代の少年たちの日常的所作にさえ、この誇り高い感性が息づいている事実を思い知らされ、わけもなく感動した体験エピソードがいくつもあった。
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