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Jリーグ 11年前

松田直樹が松本山雅FCに残したもの

2011年8月2日、9時58分、梓川ふるさと公園で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった松田直樹。短い期間ではあったが、彼は松本山雅FCに何を残したのだろうか? チームを支える関係者に話を聞いた。

text by 宇都宮徹壱 photo by Tetsuichi Utsunomiya

【サッカー批評issue52】掲載 ※2011年9月発売号

8月2日、午前9時58分

 その日――2011年8月2日、松本市の天候は曇り。最高気温28・2度、最低気温20・5度、湿度72%。風は北西にゆるく流れていた。取り立てて何でもない火曜日の午前9時30分ごろ、梓川ふるさと公園にて、松本山雅FCの練習がスタートする。いつも使用しているグラウンドが、夏休みで予約できなかったため、この日は松本市の中心から車で30分ほど離れた、このふるさと公園でのトレーニングとなった。

 監督兼GMの加藤善之は、軽いミーティングのあと、選手にランニングを指示すると、デコボコのグラウンドを砂で均す作業に取り掛かった。ゆえに彼は「あの瞬間」を直接は目撃していない。ただランニング開始と同時に、加藤は習慣的に自身のストップウォッチをスタートさせている。そのため以後の経過は、かなり正確な時間とともに記録され、山雅の公式サイトでも発表されることとなった。

9:42 ランニング開始
9:57 ランニング終了
9:58 脈拍を測りながらストレッチを行っている途中に、松田直樹本人から突然体調不良の訴えがあり、その場に倒れ込む
10:03 救急車を要請 この時、練習を見学していた数人のギャラリーは、事態がただならぬことを察知し、ツイッターへの書き込みを開始。「松田倒れる!」の報は、瞬く間にネット上に拡散していった。

 そんな中、救急車の手配を終えた加藤が次に連絡したのは、山雅の代表取締役、大月弘士である。「大月さん、マツが意識不明でヤバいです!」との電話を受けた大月は、その日は家業である酒屋の仕事をしていたが、すぐさま車に飛び乗り、搬送先である信州大学医学部付属病院に急行した。

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