トヨタカップのためだけに行われた期限付き移籍
そんな中、86年5月に知良は『キリンカップ』で『パルメイラス』の一員と来日している。これは日本サッカー協会の強い意向だった。大会期間中だけ、パルメイラスへレンタル移籍することになったのだ。
キリンカップには奥寺康彦が所属しているベルダーブレーメンも招聘されており、知良との〝日本人対決〟が大会の売りとなっていた。4チームの参加したこの大会でパルメイラスは優勝、奥寺のいるベルダーブレーメンとの試合は4対0の圧勝だった。
大会だけのレンタル移籍は、知良だけの特例ではない。発想の自由なブラジルのクラブは、重要な試合のためにレンタル契約を結ぶことがある。
比較的知られているのは97年のトヨタカップだ。南米代表のクルゼイロは大会のために、ベベットとドニゼッチという2人のフォワードを補強した。ドニゼッチはヴェルディ川崎でプレーしたことのある選手だった。
さらに大会直前に監督が、ヴェルディを率いた経歴があるネルシーニョ(現レイソル)に替わったこともあり、日本人にとっては新味のない試合となってしまった(相手がドイツのボルシア・ドルトムントという地味なクラブだったこともある。後に香川が移籍することになる、黄色と黒色のユニフォームのクラブだ!)。
話を86年の知良に戻す――。
名門サントスに〝所属〟することは、日本向けビジネスを考えれば悪くない。しかし、父親の納谷宣雄は満足していなかった。納谷は知良の代理人だった。知良のような若手選手は試合に出場して経験を積まなければならないのだ。
そして、日本に帰国するまで知良は、マツバラ、CRB、再びキンゼ・ジャウー、そしてコリチーバと渡り歩くことになった。
ジーコのようにフラメンゴの下部組織からトップチームに昇格し、ほぼ一つのクラブでプレーし続けるのは奇跡のようなものである。ブラジル人にとって成功の階段を昇る、あるいは降りるにせよ、移籍は自然の営みなのだ。
【了】