一度会っただけの相手に披露した驚くべきマジック
それからちょうど3か月後、わたしは別の同行者とともに再び同じホテルを訪れていた。その翌日に行われるFA決勝、ニューカッスル戦に向けてのアーセナルの記者会見に参加するためである。
会見開始までの空き時間、ホテルの中庭をそぞろ歩き、ほれぼれとするような颯爽たるスーツ姿のデニス・ベルカンプやトニー・アダムズの姿を遠目に愛でなどしていたところ、ふと気づくと、数十メートル先から手を上げてこちらに向かってく長身の紳士がいる。
誰あろう、ヴェンゲルその人だった。思わず後ろを振り返ったが、それらしき人影はない。そのときのわたしの表情、仕種たるや、至極滑稽なものだったに相違ない。
まさか一度きりの機会を覚えてくれていたとは、そして、そんな離れた距離からわたしを認めてくれたなんて―――ぎこちなく照れ笑いをしながら返礼を返すわたしに、その直後、ヴェンゲルはさらなる驚きのマジックを披露したのだからたまらない。
満面の笑顔で手を差し出したヴェンゲルは、次の瞬間、悪戯っぽくわたしをねめつけた。
「やあ、しばらく。でも、いつの間に髪に青い色を入れたんだね?」
あるアドバイスを真に受け、遊び心で白髪の部分にのみ色が出るヘアマニキュアにわたしが“手を染めた”のは、その2か月前のことだったが、その間、誰一人として気づいた(ないしは指摘した)人はいなかった。それを初めて、アーセンの口から聞くとは。
一瞬呆然としたが、それでも何とか「申し訳ない、赤と白じゃなくて」と、下手なジョークを絞り出したわたしの肩を、アーセンはくすくす笑いながらその長い腕がぐいっと伸ばしてポンと叩き、こうのたまった。
「おやおや、君が仮にチェルシーやエヴァートンのファンだとしても、わたしと君の間に何か変化が起こるはずもないだろう。違うかね?」
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