日本人ライターは「勤勉」なのか?
さて、面白いことに1964年東京オリンピックのポスターをデザインした亀倉雄策は次のように言ったという――
「日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。みんなそのことを忘れている」(『Tokyoオリンピック物語』)。
亀倉のこの言葉は、私たちがステレオタイプの罠から解放される道筋を示してくれているようだ。私たちが考えている「国民性」は私たちが何かを忘れることで成立している。「日本人サッカー」を語るとき私たちが忘れるものとはなんだろうか? それは、多文化的・文化混交的な出自の選手たちである。
日本代表にはハーフナー・マイクや酒井高徳、李忠成らがいる。しかし彼らは海外組かつ日本代表であるにもかかわらず「日本人らしさ」を語る言説の中に登場することはない。
周知のように90年代以降イングランド代表やフランス代表では旧植民地からの移民やその子孫が活躍し始めた。多文化主義を掲げるオランダもそうだし、ドイツ代表も今ではトルコ系や旧東欧系の選手が多く活躍する。私たちは「イングランド人らしさ」や「ドイツ人らしさ」でサッカーを語ることがすでにナンセンスだと分かっているはずだ。
それと同様に日本サッカーも多文化・多民族的に変容していることを早く受け入れてはどうだろうか。「海外組」は技術やフィジカルのそれぞれの能力を駆使して現代の多文化的ピッチで活躍している。
なにも彼らをコンプレックスが生み出したステレオタイプで括ることはない。彼ら一人ひとりがそれぞれオリジナルな特徴を持っており、その多様性こそが日本のサッカーを豊かにしていくのだから。なによりも「日本人らしさ」で海外組を語ろうとしている「日本人」サッカーライターのみなさん、あなた方自身はちゃんと「勤勉」でしたか?
【了】
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