「最初は、言葉、習慣の違いで苦労していた」――ジュベントスのオズヴァウド氏
1982年末、ブラジルに渡ったカズが最初に籍を置いたのが、サンパウロ市内に本拠を置く中堅クラブ、ジュベントスの17歳以下のチームだった。
ジュベントスは、イタリア移民によって設立された総合スポーツクラブだ。広大な敷地の中に練習用グラウンド、体育館、トレーニングルームなどを完備しており、市内の別の場所に自前のスタジアムも保有している。ビッグクラブではないが、練習環境はすばらしい。
クラブハウス近くの選手寮に住み、練習に励んだ。周囲は、プロを目指し、人生をサッカーに賭けているハングリー精神の塊のような少年ばかり。当時の日本はワールドカップに出場したことがなく、プロリーグすら存在しないサッカー後進国だったから、「そんな国から何をしに来たのか」という目で見られた。
ブラジルは極めて親日的な国だが、ことサッカーに関しては、長い間、日本は全く評価されていなかった。たとえば、この国で(人種、国籍を問わず)サッカー選手を指して「あいつはジャポネス(日本人)だ」と言った場合、それは「下手クソ」を意味していた。
カズがユニフォームを着てピッチに立っているだけで、「おい、日本人がサッカーをやろうとしているぞ」と笑われた。練習試合や紅白戦で、自分だけパスがもらえないことも珍しくなかった。カズは、このような偏見とも闘わなければならなかった。
サッカーと平行してフットサルのチームにも入り、テクニックを磨いた。当時、フットサルの少年チームの監督を務めていたオズヴァウドはこう回想する。
「最初は、全くポルトガル語が話せなかった。サッカー以前に、生活面で苦労していたな」
言葉がわからないから、何を言われてもうなづくばかり。ブラジルの食事には比較的早くなじんだが、寮のベッドではノミ、ダニの襲来に悩まされた。
また、日本から持ってきた貴重な私物が寮で頻繁に盗まれる。このことについて、オズヴァウドは、「サッカー選手を目指す子は、貧困家庭の出身者が多いから……」と口を濁す。少年カズは、このような嫌がらせにも立ち向かわなければならなかった。