バイエルンのGMだったへーネスの実家がハム会社だった
当時、藤井は営業スタッフに「自転車で20分以内のところだけ回ればええ」と指示していたという。要するに「地域密着」という発想である。今でこそ当然すぎる話だが、当時はまさに「目から鱗」だったらしい。ガンバとセレッソは、大阪の南北でファン層が大きく色分けされている。その棲み分けが明確になったのも、実のところ藤井が自転車営業の陣頭指揮を執るようになって以降の話であるようだ。
それから3年後の00年、藤井はセレッソの社長に就任。ここでクラブは画期的なプロジェクトに乗り出す。ドイツの名門、バイエルン・ミュンヘンとの事業提携。しかも社長と副社長(大西忠生=故人)が1ヶ月半にわたって現地視察をするという、今ではあり得ない大がかりなものであった。
「たまたま、バイエルンの当時のGMだったウリ・ヘーネスが、実家がハム会社だったんですね。要するにハムつながり(笑)。ヘーネスから『地域密着もファンサービスも、金がなければできない。だから儲けなければいけない』と言われたのが印象的でした。すなわち『スポーツはビジネスだ』と。ですからバイエルンは、僕にとっての師匠ですよ。今やっているのも、バイエルンのやり方の日本式アレンジ。クラブの組織図も、バイエルンを参考にしてフラットなものに変えました」
一方で、クラブとサポーターをつなぎとめるノウハウも、バイエルンから多く学んだ。クラブ主導による、サポーターズミーティングやアウェイバスツアーの実施は、いずれも藤井の社長時代にスタートしており、Jリーグ全体で見てもかなり早い方だ。
その後、クラブがたびたびJ2降格の憂き目にも遭っても(02、07~09年)、さほど深刻なファン離れを起こすことなく、今も地元で根強い人気を保ち続けているのは、藤井が築いたファンサービスの礎に負うところが大きい。
もっとも当人は、このままJクラブの社長の椅子に固執する気はさらさらなく、04年には「黒字転換と地域密着の役目を果たした」として退任。あっさり日本ハム本社へと戻っていった。