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知られざるサポーターの生態 ~ちょっと不思議な行動録~

text by 森雅史 photo by Kazhito Yamada / Kaz Photography , Kenzaburo Matsuoka

【Jリーグ発足からのサポーターの変化】

サポーターの間で身内感があった

 1993年、Jリーグブームに加え、94年アメリカ・ワールドカップを目指すオフトジャパンの快進撃で、スタジアムは大いに盛り上がっていた。93年のワールドカップ・アジア1次予選のときまではバックスタンドにも自由席が設けられており、そこがサポーターの集まる場所だった。

 そのころまでは、日本代表の試合が、サポーター主導で応援するほぼ一つの場所だった。日本サッカーリーグの試合では、各企業の応援団が前面に出ており、読売クラブのサンバ隊もクラブ主導だった。そのため観客が主体となって応援をするのは、別のチームをそれぞれ応援していたファンたちが集まっていた日本代表戦だったのだ。人数は少なかったが、交流の範囲は広かった。そして人の少なさが「身内」感を生んでいた。

 アジア最終予選を前に、日本代表戦もJリーグと同じくゴール裏のみが自由席となり、そちらにサポーターは移った。そして最終予選の壮行試合となった10月4日のコート・ジボワール戦で、ゴール裏は会場全体を包むグルーブ感の中心地となった。

 だが、この時点ですでに「サポーター」に関する問題点が浮上していた。お互いをよく知る仲間同士だったサポーターは、急激に人数が膨らみ、「身内」同士の感覚が徐々に薄れていった。

 友人だからこそ言い合えた厳しい言葉を聞いて、新しくサポーター席にやってきた人たちは恐怖を覚えた。また、応援席にいることを楽しみ自分は動かない「地蔵」と言われる人たちと、声を出して応援する人たちとの間で軋轢が生まれた。そして、温度が違う者同士が混在するのを避けるために、開場後の席取りが激化し、そのことも余計にトラブルの元になった。

 何より「サポーター」間での方向性の違いが明確になってきた。一番顕著に表れたのは「ドーハの悲劇」の後だ。現地で相手チームとの応援合戦を経験し、喪失感を味わって帰国したサポーターたちは、テンションの高さを落ち着かせられなかった。Jリーグと最終予選の雰囲気が違うことは当然なのだが、それにいらだちを覚え、言葉が過激になり、次第に周囲から浮いていく。

日本流サポーターはゆっくりと形成された

 次第にサポーターはスタジアムの中でのセグメントを形成し、そこから外へと出にくくなった。好きなクラブで、気の合う仲間と一緒に応援する。そういう流れができあがった。

 それでもJ2を中心に各チームのサポーター同士の交流は生まれ続けた。J1に比べると観戦者が少なかったJ2では、まだ「身内」の意識が色濃く残っていたのだ。ゆるやかな競争意識からくる空気感は、ライバル意識が剥き出しのJリーグ創世記とは異なっていた。さらに、スタジアムを埋める大多数のファンは、チームが苦しいときこそ一層の声援を送るという応援を望み、その声に押されてサポートの方向が変わっていった。

 02年日韓ワールドカップの後の10年で、選手とサポーターとが友人関係であるかのような日本流のスタジアム風景はゆっくりと形成されてきた。そしてJリーグ発足から20年近くが経過したとき、日本流の優しいサポーターに囲まれていても、海外で通用する選手は出てくるというのが証明されたのである。

【了】

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