川淵チェアマンから「欧州を回ってきてくれ」と言われた
僕がJリーグに入ったのは97年。前職は教育産業で、僕は衛星の事業をやっていたんですよ。いわゆるディスタンスラーニング(通信回線などを使って遠隔地で教育機関の講義を受けること)をやっていて、そこでビジネスの基本を学ばせてもらいました。川淵さんに引っ張られた? いえいえ「ご縁があった」ということです(笑)。
で、97年はJリーグが一番厳しかった年でした。当時、選手の年俸が高騰していて、観客数も落ちていた。フリューゲルスとマリノスの合併話が出たのは、その翌年でしたね。で、僕は当時、企画部というところに所属したんですけど、当時の川淵チェアマンに「欧州を回ってきてくれ」と言われました。当時31歳。入局してすぐで、何で僕だったのかわかりませんが、その頃から定期的に欧州に行っていました。
最初にお世話になったのはDFB(ドイツサッカー連盟)でした。当時のドイツは、クラブライセンス制度の前身となるものがすでにあって、それをきちんと機能させている唯一の国でした。その仕組みを学んで、同時に中小のクラブがどう経営されているかを視察していました。具体的には、ニュルンベルク近郊にあるSpvggグロイター・フュルト、それからミュンヘン郊外のウンターハッヒンク。いずれもトップリーグではないクラブです。
それまで現地でサッカーを観る機会というのは、正直なかったです。でも僕は、小学生のときからサッカーマガジンとイレブンは隅から隅まで読んでいましたから、そういう予備知識はあった。それにドイツは、僕ら世代の憧れの国だったので、専門的な知識はなくても、何を調べなければならないかというツボはわかっていました。
では視察の結果、何がわかったか。まずドイツの場合、クラブ経営というものが必ずしもインダストリー(産業)という感じではなかったこと。選手はプロだけど、中小のクラブになると、運営はプロパーで4人とか5人で賄っている。ボスマン(裁定)の後だったけど、まだビッグマネーが流れ込む時代ではなかったので、少ないスタッフで自分たちの分を守って運営されている、というのは勉強になりましたね。