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日本代表 12年前

「日本人らしいサッカー」とは何か?(その3・岡田監督の試みと挫折)

text by 西部謙司 photo by Kazuhito Yamada

岡田監督とオシム監督のトレーニングの明確な違い

 岡田監督とオシム監督のトレーニングを比較すると、明確な違いに気づく。岡田監督のトレーニングでは目的が明確だった。例えば、クロスに対して2人の選手が中央に走り込んでシュートする練習では、ニアサイドへのスピードのあるクロスという正解がある。それは日本が得点するために考案された方法であり、そのアイデアを現実に体験するためのトレーニングだ。一方、オシム監督のトレーニングでは意図はたいていはっきりしていない。意図が隠されているようなトレーニングであり、選手がそれを見つけるための練習メニューが組まれていた。

 アイデアが先に決まっているトレーニングと、アイデアを出すこと自体を求めているトレーニングの違いといったらいいだろうか。

 岡田監督下の日本代表の典型的な現象として、直近のトレーニングでテーマとなっていたプレーが、試合でそのまま出るということがあった。サイドからニアポストにくさびを入れるという練習をすると、すぐにそのプレーが試合に出る。ニアポストへの速いクロスを練習すると、それが次の試合にそのまま表れる。練習したことが試合で発揮されるのだから良いことのようにも思えるが、それが期間を経た後には残っていない。次のテーマに取り組むと、前のテーマは消えてしまう。積み上げにならず、積んでは崩すの繰り返しだった。

 現象として「ある」プレー、すでに「ある」個の能力を組み合わせたチーム作りにとどまってしまった。新しいアイデアを引き出したり、選手の能力を伸ばすことでチームのスケールを大きくしていくチーム作りになっていない。つまり、岡田監督下に進められた「日本化」は、本日ただいまの日本選手のスケールに合わせたものにとどまっていた。

 それは詰まるところ、引いた相手を崩すという課題に対して、岡田監督が有効で明確なアイデアを持っていなかったからではないかと思う。中村俊輔のアイデアに依存してきたのは悪いことではない。ただ、中村が不調に陥った時点でチームはどう攻めていいかわからなくなってしまった。もし、本田圭佑がもっと早い段階でチームの中心になっていたら、中村に代わって攻撃のイニシアチブを握っていたかもしれないが、それは中村化したチームが本田化するだけで、「日本化」なのかどうかはよくわからない。

 すでに記したが、僕は「日本化」が日本代表チームの強化につながるとは思っていないので、岡田監督がチームを「日本化」できたかどうかについては考えない。ただし、「日本化」しようとした結果、チームが進歩しなかったという印象は強く残っている。

【その4へ続く】

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