ポゼッション重視に変化した理由
ポゼッション重視に変化した理由は、東南アジア4ヶ国(タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム)の共同開催だったアジアカップは酷暑が予想され、自分たちがボールを持って、相手を走らせるスタイルのほうが有利だと考えたのかもしれない。大会に臨むにあたって、日本代表はほとんどフィジカルトレーニングを行っておらず、そのための時間もなかった。体力的な不安からも、自分たちが主導権を握る戦い方を徹底したのは結果的に良かったようだ。
しかし、そうしたアジアカップの状況だけがスタイル変更の理由ではないだろう。オシム監督はもともと3人のプレーメーカーのうち少なくとも2人までは起用するつもりだった。それは2月の時点ですでにそう考えていたと後に本人が話している。3人全員を起用すると決めたのがいつかはわからないが、オシム監督にとって複数のプレーメーカー起用は「日本化」の1つだったと思われる。
アイデアとテクニックに優れたプレーメーカータイプの選手。オシム監督は日本の良質な特徴、“らしさ”をそこに見いだしていたのだろう。ただ、オシムがもともとそういう考え方の監督だったともいえる。
旧ユーゴスラビア代表を率いた90年W杯では、ドラガン・ストイコビッチ、サフェト・スシッチ、ロベルト・プロシネツキの3人を同時起用している。この大会のオシム采配で有名なのは、スター選手の起用を望むメディアへの“みせしめ”として、ストイコビッチ、スシッチ、サビチェビッチを同時起用して完敗した西ドイツ戦である。
いわゆる「エクストラキッカーは1人か2人」あるいは「水を運ぶ人」の重要性について、教訓的に持ち出される試合だが、実際にはサビチェビッチがプロシネツキに代わっただけで、エクストラキッカーは3人使っているのだ。
もちろん、サビチェビッチはプロシネツキよりも攻撃型だったので、多少の軌道修正はしているのかもしれないが、アイデアとテクニックに優れた選手を複数使うのは、オシム監督の好みだったと推測できる。ストイコビッチ、スシッチ、プロシネツキの関係は、そのまま中村俊輔、遠藤、中村憲剛に当てはまる。
守ることを主体に、あるいは攻守のバランスを考えてチーム編成をするなら、アジアカップの人選はありえない。MFで守れるのは鈴木啓太だけで、センターバックに阿部勇樹を起用したのも守ることよりもパスをつなぐ能力を買われてのことだろう。加地、駒野のサイドバックは、アジアカップでのプレーはほぼサイドアタッカーである。攻めるためのメンバー編成であり、そのためには当然ボールが必要だった。
つまり、試合時間の大半でのフォーメーションは2バック+1ボランチの3バック、3人のプレーメーカー、2人のサイドアタッカー、2人のストライカーという形だった。ボールを保持することで、このフォーメーションを相手に押しつけ、サイドのオーバーラップによって揺さぶりをかけ、プレーメーカーのアイデアとストライカーの動きでフィニッシュという流れが見えてくる。