アジアカップでは攻撃を重視していた
サイドを担当した中村俊輔、遠藤、山岸の3人の中で縦へ突破できるのは山岸だけだ。中村と遠藤はプレーメーカータイプであり、担当サイドと利き足も反対である。中村、遠藤がサイドでボールをキープすることはできても、そこからサイドを深くえぐるには他の選手が必要だった。
右サイドバックの加地亮、左の駒野友一は、それぞれ中村と遠藤の背後を駆け上がり、追い越して、攻撃に深さを作り出していた。酷暑の中で、必ずオーバーラップを仕掛けていく加地、駒野の負担は相当なものだったと思うが、彼らの動きはこのチームにとって非常に重要だった。
例えば、中村俊輔がボールを持ったときに、加地が中村の背後をオーバーラップする。そうすると、相手のディフェンスラインは加地の動きに合わせて後退するので、それだけディフェンスラインの手前のスペースが空く。
加地、駒野のオーバーラップは、直接彼らにパスを出して突破させるだけでなく、むしろバイタルエリアを広げることに意味があった。空けたディフェンスライン手前のスペースには中村俊輔、中村憲剛、遠藤のいずれかが入り込んでパスを受け、そこから決定的なプレーに移行していくのが狙いである。【図2】
ゾーンの4バックを採用したのは、それが守りやすいというより攻めやすいという理由だろう。3人のプレーメーカーと1人のアンカー、そしてサイドを駆け上がる2人が必要なので、フィールドプレーヤーはあと4人だが、DFは少なくとも2人は必要で、FWも1人は必要だ。そうなると残りは1人、ほとんどボールを支配して攻めているのだから前方に置いたほうがいい。攻められている相手が前線に残せる人数は1人か、せいぜい2人と考えられるから、DF2人と鈴木啓太の3人が残っていれば数は足りる。
06年型では、センターバック2人とサイドバック2人のほかに、MFにマンマーク用の選手(阿部)を使っていた。相手が1トップ(3トップ)の場合は4人のDFでいいが、2トップの場合はMFがFWの1人をマークしてセンターバックを1人余らせるためだ。アジアカップでは、このエクストラMFが消えていたわけだ。オシム監督は、アジアカップでは守備を考えるよりも攻撃を重視していたのだ。
07年アジアカップでオシム監督が作ったチームについてまとめると、3人のプレーメーカーの同時起用による圧倒的なボールポゼッションのサッカーということになるだろうか。
06年はジェフ千葉型のサッカー、つまりある程度相手にボールを持たれることを想定し、そこでどう守り、攻めるかというサッカーだった。しかし、07年アジアカップ版では自分たちがほとんどの時間でボールを持って攻めるサッカーになった。